桑折西山城跡
伊達市の隣、伊達郡桑折町(こおりまち)には西山城という城跡があります。
伊達家十四代目当主、伊達稙宗(たねむね)が1532年頃に築いた山城で、1548年に嫡男の伊達晴宗(はるむね)が城を米沢に移すまで、伊達氏の本拠地になった城です。
……とパンフレットの説明を元に書きましたが、私はこういう文章だと実際に何があったのかうまくイメージできません。
ので、ここから先は、もうちょっと砕けた文章で書いていきます。
稙宗は要するに、独眼竜と呼ばれる伊達政宗のひいおじいちゃん。
政宗もなかなかの野心家ですが、稙宗は輪をかけてすごい人だったようで、自分の娘や息子を周囲の戦国大名に嫁や婿に送り込んで、各地の領地の乗っ取りを考えていたようです。
その一方で、塵芥集(じんかいしゅう)という法律を作って領地を治めていたようで、その法律も非常に量が多く具体的で細かい内容だったということです。
今の六法全書みたいな感じかな? あそこまで条例は多くなかったでしょうけれど。
とにかく、とても野心家でやり手の大名でした。
時は室町。しかも戦国時代。
それまで稙宗は、私が住む伊達市にある梁川城に住んでいたのですが、平地の中の高台の城で「ここでは攻められたときに守り切れなくて危ない」と考えたようで、標高192.8m(麓からの高さは100mくらい)の山の上に城を造って引っ越したのでした。
お城というと、高い天守閣と立派な石垣を想像するかもしれませんが、あれは織田信長の時代以降に作られたもの。
戦国時代の城は、敵が攻めにくく、自分たちが守りやすいように造った山城がメインでした。
自然の地形をうまく利用して造られているのも特徴です。
西山城も、だから天守閣があるわけではありません。
庭園などが整備された城跡公園があるわけでもない。
でも、城があった地形などが当時のままよく残っているので、平成2年に国指定史跡になりました。
そんな西山城跡をいつか自分の足で訪れてみたい、と思っていたのですが、なかなか行く機会がありませんでした。
すぐ隣の町なのですけれどね。
昨日は一日とても良い天気。
午前中の用事がすんだ後、旦那様が「前から行きたがっていた西山城に行ってみるか?」と言ってくれたので、息子と3人で西山城跡散策に出かけたのでした。
ここから先は、西山城跡で撮った写真を並べていきます。
麓の入り口。イノシシの防護柵があって、城跡へ登る人が自分で開け閉めします。
そこから山道を登ること約20分。
マスクをつけていると息が苦しいし、すれ違う人もいないので、マスクをずらして登りました。
道脇の斜面にはいろいろな山野草が咲いていました。
ヤマブキ
スミレ
シロバナタンポポ(日本タンポポ)
頂上付近に着くと視界が開けて、大手門があった場所を示す石碑や案内板がありました。
ちなみに、本当の大手道は登ってきたのとは別ルート。
沢沿いの道だったようですが、今は道がなくなって通れなくなっています。
大手門から本丸へ至る道。
左側の段々になっている高まりは、二の丸の東側の縁。
直接攻め上りにくいように、斜面を削って段差をつけています。
上の場所から背後へ進むと砲台場がありますが、もちろん稙宗の時代に大砲はありません。
江戸末期の戊辰戦争の際に、官軍が仙台に攻めてきたら防ごうと伊達氏が大砲をここに据えたそうです。
でも、実際には一発も撃つことはなかったのだとか。
奥の高まりが大砲の台座。
左側は山の斜面になっていて、麓の国道がよく見えます。(だから大砲をここに据えたんですね)
戻って本丸へ登っていって来た道を振り向くと──
ここは正門跡です。
当時はこんなふうに門と柵が築かれていたみたいです。
正門に背を向けて行く手を見ると、一段と高いところに旗と菜の花。
あそこが本丸の場所です。
登り切りました。
景色が開けます。
桑折町は桃の里。
桃畑が満開なのでピンクの絨毯のように見えます。
ちなみに、写真中央付近に整然と並んでいる黒い屋根の家の集団は、東日本大震災で桑折町に避難してきた方たちの復興支援住宅です。
戦国時代には軍事衛星も偵察機も、緊急連絡を入れるための携帯や無線もありません。
だから、周囲が広く見渡せて敵の接近にいち早く気がつけることが、なにより重要でした。
山城の城跡に行くと、とにかく見晴らしがいいのですが、この西山城跡の本丸跡からも周囲が本当によく見えます。
先述のとおり桃の花も満開なので、散策にきた人たちが菜の花の前のベンチに座って景色を楽しんでいました。
東北新幹線の線路も見えます。
あ、新幹線がちょうど通っていきました。
新幹線は向かって左から右へ、福島駅のほうへ走っていました。
写真を大きくするとわかるかと思いますが、緑の車体の東北新幹線やまびこの後ろに、ピンクと白の秋田新幹線こまちが連結されています。
先月16日に福島県沖で発生した震度6強の地震の影響で、東北新幹線は路線に被害を受けてしばらく運休していました。
応急処置で再開しましたが、この日も臨時ダイヤで運行中。
新幹線はゆっくりゆっくり、普通電車よりもっとゆっくり走っていきました。
本丸跡を示す石碑。
西山城は地元では昔から「高館城」と呼ばれていたそうです。
中心建物の跡。
発掘して、柱の跡が見つかったそうです。
稙宗はここで政(まつりごと)を行ったのですね。
わかりにくいのですが、本丸と西側にある二の丸の間を隔てていた空堀(からぼり=水がない堀)です。
元々つながっていた尾根を堀で分断して、敵が二の丸→本丸と移動したり、本丸→二の丸と移動したりしにくいようにしてあります。
空堀の説明。
西山城はやがて本丸と二の丸だけでは手狭になってきたようで、西側に中館(なかだて)と呼ばれる曲輪(くるわ)が拡張され、さらにその西にも西館(にしだて)と呼ばれる曲輪が造られました。
曲輪とは城の中の区画整理された平地のこと。
山城の場合、山の頂上や斜面を削って平地を造っています。
上の写真は中館を見上げたところ。
二の丸の縁と同じように、敵が攻めにくいように、曲輪の横は斜面を削って切崖(=垂直に近い土壁)にしてあります。
写真だと大したことないように見えますが、実際にはけっこうな高さと勾配です。
切崖を登って越えるのは難しいし、甲冑を着て坂道を駆け上がるのはかなり大変そう。
「ここを攻めたんだから、昔の人って体力あったんだね」
と息子が言いました。
まったく、軟弱な現代人にはとても無理ですね。
こんな山城のどのルートを通って突破すればいいか、どの時間帯に来れば見張りに見つかりにくいか──そんなのを事前に探ったのが忍者だったんだろうね、なんて話もしました。
こちらは中館と西館を仕切っている空堀。
中館側から撮っているのでわかりにくいですが、西館側より中館側のほうが高くなっているので、中館のほうが重要な場所だったことがわかるのだそうです。
ここを越えて先に行くのは無理なので、西館にはぐるっと北側を回って行くのですが(実際にそちらを通って西館を歩いている男性もいました)、息子がだいぶへばってきたし、「あっちまで行くとけっこう大変だぞ」と旦那様も言うので、ここから戻ることにしました。
でも、ここにも見所が。
虎口(こぐち)、つまり曲輪への出入り口です。
正式には中館枡形状虎口(なかだてますがたじょうこぐち)と言うそうです。
わかりにくいので、ちょっと描き込んでみました。
白い線のところが(たぶん)通り道。
黄色い矢印は敵が攻め込むときのルートです。
虎口は狭いので敵は大勢では攻め込めないし、ほぼ直角に曲がっているのでそこでもたつきます。
守る側は虎口の正面で待ち構えて攻撃することができるし、「A」は切崖になっているので、その上からも敵を攻撃できます。
「何で攻撃するのかな。鉄砲?」
「室町時代だからね。槍とか弓矢じゃない?」
「槍かぁ」
そんな会話も息子としました。
虎口から戻る途中に綺麗なしだれ桜がありました。
まだちょっと若い木ですが、育ったらそれはみごとになって、素晴らしいシンボルツリーになることでしょう。
楽しみです。
西山城跡を散策したい方は、歩きやすい格好でお願いします。
入り口の案内板にはパンフレットも置いてありました。
車でおいでの方は大かや園という町営の老人福祉センター(中に桑折城跡ガイダンス施設が併設)の駐車場か、登城口にある観音寺の駐車場が便利です。
西山城跡のパンフレットは大かや園の中にもあります。
☆桑折西山城跡
住所:福島県伊達郡桑折町万正寺本丸
最近のコメント