歴史

2022年4月18日 (月)

桑折西山城跡

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伊達市の隣、伊達郡桑折町(こおりまち)には西山城という城跡があります。

伊達家十四代目当主、伊達稙宗(たねむね)が1532年頃に築いた山城で、1548年に嫡男の伊達晴宗(はるむね)が城を米沢に移すまで、伊達氏の本拠地になった城です。

 

……とパンフレットの説明を元に書きましたが、私はこういう文章だと実際に何があったのかうまくイメージできません。

ので、ここから先は、もうちょっと砕けた文章で書いていきます。

稙宗は要するに、独眼竜と呼ばれる伊達政宗のひいおじいちゃん。

政宗もなかなかの野心家ですが、稙宗は輪をかけてすごい人だったようで、自分の娘や息子を周囲の戦国大名に嫁や婿に送り込んで、各地の領地の乗っ取りを考えていたようです。

その一方で、塵芥集(じんかいしゅう)という法律を作って領地を治めていたようで、その法律も非常に量が多く具体的で細かい内容だったということです。

今の六法全書みたいな感じかな? あそこまで条例は多くなかったでしょうけれど。

とにかく、とても野心家でやり手の大名でした。

 

時は室町。しかも戦国時代。

それまで稙宗は、私が住む伊達市にある梁川城に住んでいたのですが、平地の中の高台の城で「ここでは攻められたときに守り切れなくて危ない」と考えたようで、標高192.8m(麓からの高さは100mくらい)の山の上に城を造って引っ越したのでした。

お城というと、高い天守閣と立派な石垣を想像するかもしれませんが、あれは織田信長の時代以降に作られたもの。

戦国時代の城は、敵が攻めにくく、自分たちが守りやすいように造った山城がメインでした。

自然の地形をうまく利用して造られているのも特徴です。

西山城も、だから天守閣があるわけではありません。

庭園などが整備された城跡公園があるわけでもない。

でも、城があった地形などが当時のままよく残っているので、平成2年に国指定史跡になりました。

 

そんな西山城跡をいつか自分の足で訪れてみたい、と思っていたのですが、なかなか行く機会がありませんでした。

すぐ隣の町なのですけれどね。

昨日は一日とても良い天気。

午前中の用事がすんだ後、旦那様が「前から行きたがっていた西山城に行ってみるか?」と言ってくれたので、息子と3人で西山城跡散策に出かけたのでした。

 

ここから先は、西山城跡で撮った写真を並べていきます。

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麓の入り口。イノシシの防護柵があって、城跡へ登る人が自分で開け閉めします。

そこから山道を登ること約20分。

マスクをつけていると息が苦しいし、すれ違う人もいないので、マスクをずらして登りました。

道脇の斜面にはいろいろな山野草が咲いていました。

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ヤマブキ

 

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スミレ

 

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シロバナタンポポ(日本タンポポ)

 

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頂上付近に着くと視界が開けて、大手門があった場所を示す石碑や案内板がありました。

ちなみに、本当の大手道は登ってきたのとは別ルート。

沢沿いの道だったようですが、今は道がなくなって通れなくなっています。

 

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大手門から本丸へ至る道。

左側の段々になっている高まりは、二の丸の東側の縁。

直接攻め上りにくいように、斜面を削って段差をつけています。

 

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上の場所から背後へ進むと砲台場がありますが、もちろん稙宗の時代に大砲はありません。

江戸末期の戊辰戦争の際に、官軍が仙台に攻めてきたら防ごうと伊達氏が大砲をここに据えたそうです。

でも、実際には一発も撃つことはなかったのだとか。

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奥の高まりが大砲の台座。

左側は山の斜面になっていて、麓の国道がよく見えます。(だから大砲をここに据えたんですね)

 

戻って本丸へ登っていって来た道を振り向くと──

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ここは正門跡です。

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当時はこんなふうに門と柵が築かれていたみたいです。

 

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正門に背を向けて行く手を見ると、一段と高いところに旗と菜の花。

あそこが本丸の場所です。

 

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登り切りました。

景色が開けます。

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桑折町は桃の里。

桃畑が満開なのでピンクの絨毯のように見えます。

ちなみに、写真中央付近に整然と並んでいる黒い屋根の家の集団は、東日本大震災で桑折町に避難してきた方たちの復興支援住宅です。

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戦国時代には軍事衛星も偵察機も、緊急連絡を入れるための携帯や無線もありません。

だから、周囲が広く見渡せて敵の接近にいち早く気がつけることが、なにより重要でした。

山城の城跡に行くと、とにかく見晴らしがいいのですが、この西山城跡の本丸跡からも周囲が本当によく見えます。

先述のとおり桃の花も満開なので、散策にきた人たちが菜の花の前のベンチに座って景色を楽しんでいました。

東北新幹線の線路も見えます。

あ、新幹線がちょうど通っていきました。

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新幹線は向かって左から右へ、福島駅のほうへ走っていました。

写真を大きくするとわかるかと思いますが、緑の車体の東北新幹線やまびこの後ろに、ピンクと白の秋田新幹線こまちが連結されています。

先月16日に福島県沖で発生した震度6強の地震の影響で、東北新幹線は路線に被害を受けてしばらく運休していました。

応急処置で再開しましたが、この日も臨時ダイヤで運行中。

新幹線はゆっくりゆっくり、普通電車よりもっとゆっくり走っていきました。

 

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本丸跡を示す石碑。

西山城は地元では昔から「高館城」と呼ばれていたそうです。

 

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中心建物の跡。

発掘して、柱の跡が見つかったそうです。

稙宗はここで政(まつりごと)を行ったのですね。

 

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わかりにくいのですが、本丸と西側にある二の丸の間を隔てていた空堀(からぼり=水がない堀)です。

元々つながっていた尾根を堀で分断して、敵が二の丸→本丸と移動したり、本丸→二の丸と移動したりしにくいようにしてあります。

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空堀の説明。

 

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西山城はやがて本丸と二の丸だけでは手狭になってきたようで、西側に中館(なかだて)と呼ばれる曲輪(くるわ)が拡張され、さらにその西にも西館(にしだて)と呼ばれる曲輪が造られました。

曲輪とは城の中の区画整理された平地のこと。

山城の場合、山の頂上や斜面を削って平地を造っています。

上の写真は中館を見上げたところ。

二の丸の縁と同じように、敵が攻めにくいように、曲輪の横は斜面を削って切崖(=垂直に近い土壁)にしてあります。

写真だと大したことないように見えますが、実際にはけっこうな高さと勾配です。

切崖を登って越えるのは難しいし、甲冑を着て坂道を駆け上がるのはかなり大変そう。

「ここを攻めたんだから、昔の人って体力あったんだね」

と息子が言いました。

まったく、軟弱な現代人にはとても無理ですね。

こんな山城のどのルートを通って突破すればいいか、どの時間帯に来れば見張りに見つかりにくいか──そんなのを事前に探ったのが忍者だったんだろうね、なんて話もしました。

 

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こちらは中館と西館を仕切っている空堀。

中館側から撮っているのでわかりにくいですが、西館側より中館側のほうが高くなっているので、中館のほうが重要な場所だったことがわかるのだそうです。

ここを越えて先に行くのは無理なので、西館にはぐるっと北側を回って行くのですが(実際にそちらを通って西館を歩いている男性もいました)、息子がだいぶへばってきたし、「あっちまで行くとけっこう大変だぞ」と旦那様も言うので、ここから戻ることにしました。

でも、ここにも見所が。

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虎口(こぐち)、つまり曲輪への出入り口です。

正式には中館枡形状虎口(なかだてますがたじょうこぐち)と言うそうです。

わかりにくいので、ちょっと描き込んでみました。

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白い線のところが(たぶん)通り道。

黄色い矢印は敵が攻め込むときのルートです。

虎口は狭いので敵は大勢では攻め込めないし、ほぼ直角に曲がっているのでそこでもたつきます。

守る側は虎口の正面で待ち構えて攻撃することができるし、「A」は切崖になっているので、その上からも敵を攻撃できます。

「何で攻撃するのかな。鉄砲?」

「室町時代だからね。槍とか弓矢じゃない?」

「槍かぁ」

そんな会話も息子としました。

 

虎口から戻る途中に綺麗なしだれ桜がありました。

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まだちょっと若い木ですが、育ったらそれはみごとになって、素晴らしいシンボルツリーになることでしょう。

楽しみです。

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西山城跡を散策したい方は、歩きやすい格好でお願いします。

入り口の案内板にはパンフレットも置いてありました。

車でおいでの方は大かや園という町営の老人福祉センター(中に桑折城跡ガイダンス施設が併設)の駐車場か、登城口にある観音寺の駐車場が便利です。

西山城跡のパンフレットは大かや園の中にもあります。

 

☆桑折西山城跡

住所:福島県伊達郡桑折町万正寺本丸

 

2022年2月14日 (月)

伊達市歴史文化資料館に企画展を見に行く

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3連休の初日の2月11日に、企画展「収蔵資料展」を見に、伊達市保原歴史文化資料館へ行ってきました。

仕事が休みだった旦那も一緒です。

この資料館は保原運動公園の一角にあって、常設展・企画展両方の展示スペースを会わせても100㎡ちょっとという小さな博物館なのですが、とても身近な歴史を扱う企画展を開催してくれるので、興味深いのです。

今回の企画展は、収蔵してある資料の絵図や古い地図から、伊達市役所がある保原町(ほばらまち)の昔の姿を読み解く、という内容でした。

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保原町は子どもの頃に2年間ほど住んだことがあったし、今現在も住んでいます。

町の大通りを通ると間口が狭くて奥に細長い土地が多いことに気がつくし、大通りから外れると昔からあったらしい曲がりくねった道がたくさんあります。

「たぶん江戸時代には町の中に街道が通っていて、道に面して旅籠や店が軒を連ねていたんだろうな」と想像していました。

よく散歩をしている旦那も同じ事を言っていたので、古い地図でそれを確かめたくて、二人で企画展に行ったのでした。

 

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展示の前半は福島県を含む陸奥国(むつのくに=東北地方)の古地図でした。

写真撮影もOKだったので、写真を何枚か載せてみます。

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江戸時代に作られた「元禄国絵図」。

現代の地図は北海道や東北を上、九州を下にして描かれていますが、この地図は東北がむかって右、九州がむかって左に描かれています。

日本を東西に分けて考えていたのが、この地図からもわかって興味深かったです。

江戸以西は大きくしっかり描かれているのに、実際には広い陸奥国がものすごく圧縮されて描かれているところにも、当時の東北が幕府にとってあまり重要ではなかったことがわかって、これも興味深いというか、なんというか。(^^;

 

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福島城を中心にした地図(上)と、梁川城を中心にした地図(下)

福島城は今の福島市、城跡は福島県庁になっています。

梁川城は伊達市梁川町にあって、伊達政宗の曾祖父で「塵芥集」を制定したことでも有名な14代目の伊達稙宗(だてたねむね)が、桑折西山城に移るまで、伊達氏の居城になっていた場所です。(伊達氏は仙台の印象が強いですが、実際にはここ福島県伊達市が発祥の地です)

東日本大震災が起きるまで、この場所には小学校がありましたが、震災後に小学校は移転して、ここは歴史公園として整備される計画になっています。

 

福島も梁川も、どちらも阿武隈川の舟運で栄えた場所ですが、この一帯は養蚕でも栄えた場所で、特に梁川町は良質なカイコの卵を日本全国に出荷していたので、昭和初期までとても賑わっていました。

小さな城下町なのですが、町中の川沿いに料亭が建ち並び、明治から昭和の時代まで芝居小屋もありました。

古地図を見ると、村や城ごとに石高も書かれていて、福島城は「715石3斗8升」、梁川城は「1966石4斗2升6合」と読めます。

読み慣れていないので、間違えていたら申し訳ないのですが、たぶん梁川城のほうが福島城より規模が大きかったんだろうと思います。

今は梁川は過疎の町、福島市は県都として拡大していますが、当時は逆だったのですね。

 

今の福島市や伊達市付近の地図には村の名前も書かれていますが、地名が大字や小字になって今も残っている場所がたくさんあって、「あ、○○があった」「ここに△△があるぞ」と旦那と盛り上がってしまいました。

バス停などでなじみのある地名もあちこちにありました。

江戸時代やそれ以前からの地名が、今も実際に住所として使われているのって凄いなぁ、とつくづく思います。

地名は歴史そのものなんですね。

 

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私と旦那があまり夢中で見ていたからか、事務所から資料館のスタッフの方が出てきて、地図の説明をしてくださいました。

保原の町中に野崎寺観音や長谷寺の卯花広智寺観音という場所があるのですが「そこは昔の古墳だったんですよ」とか、「昔の地図から大通りの町割りが復元できて、住んでいた人の名前もわかったんです」とか、興味深い話が続々と。

上の写真は大正から昭和24年頃までの保原町の商店街の地図なのですが、今も残っている店の名前があちこちにあって、これまた興味深い。(丸で囲んである店は現存または看板が残っているところ。私がチェックしました)

コロナの感染拡大がなければ、復元した地図を手に実際に町を歩くツアーも実施したかったのだと聞いて、「コロナが収まったら、ぜひ企画してください」とお願いしました。

解説者付きで、古い地図片手に町を歩いて、「ここは昔○○だった」「ここには△△さんが住んでいた」「この地図にある××はこういうものだった」などと知っていく。

ブラタモリみたいで、とても楽しそうです!

本当に実施してほしいな~。

 

企画展から帰ってからは、グーグルマップで地図に残っている地名を確かめたり、展示会で紹介されていた本を図書館に借りに行ったり。

楽しみは今もまだ続いています。

 

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と、歴史に夢中の様子を書きましたが、実を言えば、私は学生時代には歴史が大の苦手でした。

○○時代にはこういうことが起きて、△△がこれをして、××事件や□□戦があって、年号は何年で……ということを学ぶのに、ちっとも興味が湧かなかったのです。

受験科目だったので勉強はしましたが、暗記が中心だったし、それも試験が終われば忘れてしまいました。

 

そんな私が歴史にちょっと興味を持ったのが、2013年にNHKで放映された大河ドラマ「八重の桜」を観たとき。

高校時代は会津若松に住んでいたので、鶴ヶ城が官軍に敗れて落城したのは知っていたのですが、具体的に官軍がどう攻めてきたのかをドラマで知って、自分の目でそのルートを確かめてみたい、と考えたのでした。

旦那に頼んで、車で官軍の進軍ルートをたどったのが2013年の6月。

そのときの様子はこのブログの前身の「そっと、ひとりごと」にも載せましたが、官軍と同じ道をたどり、戦場になった場所を実際に見ることで、昔がぐっと今に近づいてきたような気がしました。

 

「戊辰戦争の進軍ルートを車でたどる」

http://ley.cocolog-nifty.com/hitorigoto/2013/06/post-3ce1.html

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今の中に残る昔をたどる。

歴史は単なる昔の出来事の記録ではなく、まして年号を暗記することでもなく、当時の人たちがどう考えどう行動してきたかを想像して感じること。

そして、今を生きている私たちも、やがてその歴史の一部となっていって、未来の人たちから振り返って想像される……かもしれない……こと。

今はどうして今みたいな今になっていったのか。

だとしたら、今は将来どんな未来になっていくのか。

そんなことまで想像できるのが「歴史」なんだとわかったら、歴史ががぜん面白くなったのでした。

 

今でも私は年号を覚えるのはとても苦手です。

誰が何をしたのか、名前もすぐ忘れてしまうし、出来事もしょっちゅう後先になるから、その都度年表やら資料やら調べないとわからないのですが、それでも「歴史って面白いな」とつくづく思います。

学生の頃にこの興味に目覚めていたら、夏休みの自由研究のテーマには困らなかったでしょうね(笑)

今はそんなものもないから、気の向くまま、興味の向くまま、身近な歴史をたどって楽しんでます。

 

以上、最後に会津戊辰戦争もちょっと混じりましたが、伊達市保原歴史資料館の企画展のレポートでした。

館のスタッフの方が、次は保原町にあったお城についての展示を企画しているとおっしゃっていたので、それもまた楽しみです。(*^_^*)

 

2021年7月19日 (月)

国見町の中尊寺ハスと阿津賀志山防塁

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日曜日、伊達市の隣の国見町(くにみまち)へ「中尊寺ハス」の花を見に行きました。

 

中尊寺ハスというのは、平安時代に東北で勢力を誇っていた奥州藤原氏の第4代当主、藤原泰衡(ふじわらのやすひら)の首桶に収められていたハスのタネから、800年の時を経て発芽・開花したハスの花のことです。

ハスの種は皮が固いので、数百年、すごいものでは千年以上過ぎても発芽するものがあるのだそうです。

中尊寺ハスの説明の看板があったので、載せておきます。(画像をクリックすると拡大できます。陽が当たって読みにくくてすみません)

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福島県伊達郡国見町には、藤原泰衡が平泉へ攻めてくる源頼朝軍を阻止しようと築いた阿津賀志山防塁(あつかしやまぼうるい)の一部が残っています。

今から800年以上前の防塁跡です。

国見町ではその防塁の端に近い場所で、平泉中尊寺から分けてもらった中尊寺ハスを育てていたのですが、今年その周辺を整備して「あつかし千年公園」という歴史公園を開設したのでした。

だから、ここに行くと中尊寺ハスと阿津賀志山防塁の両方を見ることができます。

 

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手前がハスの池、奥に見える土手のようなものが防塁跡です。

防塁は写真の左側へずっと続いています。

 

ハスの花はちょうど満開でした。

咲き始めは濃いピンク色ですが、咲ききるともっと薄いピンク色になります。

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ハスの花は朝に咲いて午前9時頃に満開になり、その後また閉じていって、昼頃にはつぼみの状態に戻ってしまうのだそうです。

それを知っている親戚から「花を見に行くなら朝のうちだよ!」と言われていたので、私たちは午前8時過ぎに到着して、満開の花を見ることができたのでした。

だいたい午前7時から10時の間が見頃なのだそうです。

 

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満開になったハス。

 

駐車場からハス池に行く間に阿津賀志山の防塁の横を通ります。

そこから撮った写真です。

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どれが防塁で、どこが阿津賀志山かわかりにくいと思うので、ちょっと描き加えてみました。

黄色でなぞった部分が防塁、白い線でなぞったところが阿津賀志山(あつかしやま)です。(クリック拡大推奨)

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先にも書きましたが、藤原泰衡は南からやってくる源頼朝軍を防ぐために、防塁を築きました。

深い堀を二本掘り、そこから出た土を堀の間と両側に盛り上げて三本の土塁にして、攻めてくる兵士と軍馬を防ごうとしたのです。

阿津賀志山の中腹から東を流れていた阿武隈川まで、およそ4Km。

平安時代の末期ですから、ブルドーザーもパワーショベルもトラックもありません。

防塁を築くのに動員された人夫はおよそ25万人、半年以上かかって築いたと考えられています。

実際に防塁の端に立って阿津賀志山を眺めると、よくもまあ、あんな遠いところからこんな場所まで人力で築いたものだ、と感心させられます。

 

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防塁の解説の看板です。

 

大変な財と労力を費やして築いた防塁でしたが、この防塁で敵を防げたのは、わずか3日でした。

頼朝軍が夜の間に防塁を埋めて乗り越えてきたのです。

激戦の末、防塁の守りについていた泰衡の兄の国衛(くにひら)たちは戦死して、頼朝軍は防塁を突破していきます。

泰衡は平泉を捨てて蝦夷(えぞ)に逃げようとしますが、結局家臣に裏切られて殺されました。

泰衡の首は頼朝に送られた後、平泉の中尊寺に戻され、首桶にハスの種と一緒に収められて金色堂に大切に安置。

平成の時代になってその種から中尊寺ハスが発芽・開花したのです。

 

ハスの花は仏教では神聖な花。

泰衡の死を悼んだ親族が、「どうか極楽浄土のお釈迦様の元へいけますように」という願いを込めてハスの種を入れたのかもしれません。

 

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ハス池や防塁を見ながら、そんな話を息子に聞かせたら、息子も感動したようで、「自分たちが見ている現代の世界の中には、ずっと昔から続いてきた歴史があるんだね」と言っていました。

それを感じてもらえたなら、歴史公園にやってきた甲斐はあったな、と思いました。

 

美しい中尊寺ハスの花と、歴史を実感できる阿津賀志山防塁が一緒に見られるあつかし千年公園。

今後、施設はもっと充実していくだろうし、ハスの花もますます増えていくことでしょう。

これからが期待できる歴史体験スポットです。

 

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【データ】

あつかし千年公園(正式名称「阿津賀志山防塁下二重堀地区歴史公園」)

住所:福島県伊達郡国見町大字西大枝字原前道下124

中尊寺ハス:7月中旬~8月が花の見頃(午前中がお勧め)

入場:無料

駐車場:あり

 

 

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