発達障害

2024年3月19日 (火)

「アレグレット」の独立と最近の親の変化

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この4月から「アレグレット」が発達障害支援の会『福島とーます!』から独立します。

経緯はとても複雑なのですが、簡単に言うと、『福島とーます!』の伊達支部だったアレグレットが、伊達市に拠点を置く親の会として正式に独立する──ということになると思います。

 

これまでも勘違いされる方が時々いらっしゃったようですが、『福島とーます!』は私が立ち上げた会ではありません。

立上げは今から23年前の2001年。

会の代表を経て現在は顧問のYさんから、「今度福島県にADHDの会を立ち上げるんだけど、朝倉さんもまざらない?」と声をかけてもらったのでした。

 

私は複数いる役員のひとりで、役職は広報。

ニュースレターを発行したり公式ブログを更新したりするのが、私の仕事でした。

2004年1月に家族会員の支部制が始まってからは、伊達支部「アレグレット」の支部長も務めました。

 

そんなわけで、今後私は『福島とーます!』からは抜けて「アレグレット」のほうに関わっていきます。

『福島とーます!』のほうは、今後は会員制をとらずに、福島県から情報を発信したり、学習会や講演会をコーディネートしたりする、新しい活動スタイルに転向する計画だそうです。

 

というところで、何故こんなふうに会が分かれることになったのか、ということなのですが……

最近の発達障がいを取り巻く状況に変化が生じていることが深く関係しているので、その報告も兼ねて書いてみたいと思います。

少し長い話になりますが、よければお付き合いください。

 

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23年前、『福島とーます!』(以下『とーます!』)が立ち上がった頃、日本中では発達障害への関心が非常に高まっていました。

知的障害の存在は昔からよく知られていましたが、知的に遅れがないのに発達のアンバランスから困難を引き起こす発達障害は、それ以前には、ほとんど知られていませんでした。

「普通に見えるのに障害がある!? ADHD!? 高機能自閉症!? 広汎性発達障害!? それっていったいどういうもの!?」

新しい障害の概念に、医者や心理士、療法士といった専門家だけでなく、保健師や、学校や幼稚園や保育園の先生、我が子の発達状態に不安や疑問を抱えていた親たちまでが、こぞって学び、実践し、研究を深めていきました。

今では日本中どこでも発達障害ということばがおおむね通じて、特別支援教室や通級、放課後デイサービスなども当たり前のように存在していますが、それは二十数年間の、本当に大勢の人たちの努力と働きかけの上に築き上げられたものなのです。

 

ところが、福祉サービスが充実してくると、それに反比例するように、子どもへの親の関わりが減ってきました。

政府の働き方改革の方針に基づいて、女性が生涯職場で働き続けられるようになり、大半の家庭が夫婦共働きになったことも、その一因だろうと思います。

私たちが現役で子育てをしていた頃は、子育てのために職場を辞める女性はけっこういました。

障害がある我が子のために親、特に母親が仕事を諦める、ということもざらでした。

 

かくいう私も、家庭で息子の世話をできる人がいなかったので、パートを諦め、学習塾でのアルバイトも辞めて完全な専業主婦になりました。

放課後デイサービスがまだなかった時代です。

児童館に預けても周りの子たちとトラブルになるので、受け入れてくれる児童クラブを探し、頭を下げまくってやっと受け入れてもらったこともあります。

それも小学校3年生で終了で、今のように義務教育終了まで利用することはできませんでした。

頼みに頼み、拝みに拝み倒して、息子は小学4年生まで利用させていただきましたが……。

 

母親が自分を犠牲にしてまで子どもの療育に関わった、素晴らしい親の愛の時代だ、なんて自分たちの子育てを美談化するつもりはまったくありません。

今の親たちの愛情が昔より薄れているとも、絶対に思いません。

あの頃に今のような福祉サービスがあったら、私だって間違いなく利用して働き続けていたはずです。

 

ただ、親が共働きでいれば、どうしたって子どものために使う時間は限られてしまいます。

休みだって簡単には取れないし、せっかく休みを取っても用事が入ったりで、予定していたことができないこともあるでしょう。

私たちの頃も親は忙しかったけれど、今の親たちはもっと多忙です。

 

さらに、社会での活動や交流は平日の勤務中にすることであり、休日は家族や個人が自分たちの楽しみと休養のために使う時間、という価値観の変化も起きています。

コロナ禍の自粛で社会的な活動が制限されてから、その変化はいっそう大きくなった気がします。

 

その状況で、親はどのくらい子どものために時間を割くことができるか。

親たちが昔のようには療育に熱心になれなかったり、親の会の活動に参加できなくなったりするのも、当然と言えば当然の変化なのかもしれません。

いえ、それは発達障害がある子どもたちの親に限らないのでしょう。

最近では、学校のPTA活動も役員を引き受ける親がいなくなって、成り立たなくなってきたと聞いていますので……。

 

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話を『とーます!』と「アレグレット」に戻します。

『とーます!』でもこのところ、会員の減少が著しくて、これまでのような活動を続けていくのが難しくなっていました。

素晴らしい先生方を講師に招いてペアレント・トレーニングの学習会を開催してきたし、コロナ禍にはオンラインで学習会を続けてきたけれど、問い合わせはごくごくわずか。

子どもが成長すれば会から抜ける親が出てくるのは、昔からのことですが、そこに新しい親が入ってこないのですから、会員数は自然と減少していってしまいます。

会のメンバーの高齢化も進んでいきます。

この現象は『とーます!』に限らず、全国の親の会に共通して起きていることです。

 

これからの会の活動をどうしていくのが良いのか。

ここ何年も、折に触れては役員や会員同士で相談してきました。

 

それでも、地域に密着した「アレグレット」だけは一定の活動を続けることができていました。

地元の情報はその地域に住んでいる人しかわからないことで、いくらネットを検索しても思うようには見つからないものです。

子育ての先輩お母さんたちから経験談を聞けるのも、実際に集まって話す例会だからこそできることです。

コロナ禍になって制限されましたが、それ以前は、お泊まり会や食事会や調理実習などの親子活動や、お花見や暑気払いといった親同士の懇親会も、定期的に開催してきました。

 

数年前、伊達市の自立支援協議会子ども部会に親の会のグループも設立されたので、そこに加わって伊達市の福祉の現状を知ったり、こちらの希望要望を伊達市に伝えたりもしています。

令和5年に伊達市に特別支援学校が新設されたのですが、それは上記の親の会グループの前身が支援学校誘致の署名活動を行った成果でした。

署名を提出してすぐに学校ができたわけではないのですが、福島県で「新しく支援学校を3校増設する」と決まったとき、「以前から要望が出ていたし、たくさんの署名も集まっているから」と、伊達市が真っ先に候補地になり、一番最初に支援学校が開設されたと聞いています。

 

こういう地域の活動は、親の会としてまとまっているからこそできることです。

親の生活環境の変化や価値観の変化で、親の会という地域活動から遠ざかるのは、自然な流れなのかもしれないのですが、その結果、将来困ってしまわないだろうか、と私は心配しています。

親として行政や社会に「ああしてほしい」「こうするともっと良くなる」と感じることがあっても、それが1人2人の意見では、行政は動いてはくれません。

数でまとまる必要が必ず出てくるし、その時に賛同してくれる人を集めるのは、かなり大変なことになるでしょう。

普段から集まって話し合っていれば、「やっぱりみんなそのことで困ってるよね」「よし、それじゃ署名を集めて行政に陳情しよう」「私は自分の親や兄弟に署名を頼んでみる」「じゃあ、私はわかってくれそうな友だちに頼んでみるね」と、トントン拍子で進むのですが……。

 

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今は学校でも放課後デイサービスでも、かなりの支援を受けることができる子どもたちですが、今後社会に出る年齢になってくると、支援は減り始めます。

就労を考えようとすると、なおさら支援が減っていきます。

障害者の雇用が奨励されていますが、発達障害や知的障害がある子どもたちの就労は、就職先がなかなか見つからなかったり、就職しても続かなかったりして、かなり厳しいのが現状です。

その先の、親亡き後のことを考えると、もっと不安は増します。

今、地域や社会全体に対して動き出さなければ、子どもがその年齢になったときに間に合わないかもしれないのです。

 

また、我が子がひとりになったときに困らないように、親として家庭で教えていかなくてはいけないことや、育てていかなくてはいけないことも、たくさんあります。

お金の使い方、掃除、洗濯、料理、その他生活して生きていくために必要な様々なこと。

 

私は今、息子に週1回夕食当番をやってもらっています。

特別な料理ではなく、仕事で疲れて帰ってきても作って食べられるような、簡単で栄養のある料理です。

一昨日はご飯を炊いて、キャベツとサラダチキンで野菜炒めを作って、ネギと干し椎茸で味噌汁を作って、あとは温泉卵と海苔の佃煮や鮭フレークなどの「ご飯の友」を並べたメニューでした。

 

将来、親がいなくなっても、自分でご飯を作って食べて生きていけるように。

それもあまりお金をかけずに、でもちゃんと栄養が摂れるように。

これは学校などでは教えられないことだと思っています。

こんな体験も、親の会の例会で雑談のように情報交換しています。

 

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子どもへの親の愛情は昔も今も変わっていないと思います。

ただ、親と子を取り巻く状況が急激に変わってきました。

地域を越えた社会全体への呼びかけや働きかけも必要になってきています。

それは新生『とーます!』にお任せしたいと思います。

インターネットなどを駆使して、きっと様々な企画を進めてくれることでしょう。

 

私たち「アレグレット」は伊達市に拠点を置いて、相双を含む県北地方に地域密着しながら、親同士の交流や情報交換、少人数での学習会や親子活動、自治体との連携などを行っていこうと思います。

活動する場所が違うので、『とーます!』からは独立という形になりますが、目指すところは同じなので、今後一緒に活動をする機会もあるのでは、と思っています。

 

いずれにしても、4月から『とーます!』も「アレグレット」も新しいスタートです。

私はアレグレットの共同代表のひとりになります。

いえ、これまでもそういう位置づけにはいましたが、改めてそうなります。

 

どうか、半歩でも一歩でも前へ進む力になれますように。

我が子たちとこれからの子どもたちの幸せな未来のために、心からそう願っています。

 

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おわり

2023年10月17日 (火)

旦那の北海道一周旅行と息子の夕食当番

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一家全員がコロナでダウンして、最後まで具合が悪かった私もやっと家事ができるくらい回復した9月下旬。

旦那は北海道一周旅行に出かけました。

 

実は旦那は60歳になったのを機に職場を退職しました。

再就職するつもりではいるのですが、その前に念願だった北海道の車中泊旅行を計画して、フェリーまで予約していました。

ところが、直前にコロナにかかって旅行は延期に。

予定では1ヶ月間かけて北海道を回るはずだったのですが、2週間遅れでスタートしたので、北海道の気候を考えて16泊17日の旅になりました。

マイカーで函館に渡り、そこからスタートして道東の道の駅を巡り、車中泊しながら海岸沿いにぐるっと北上、南下して苫小牧からまたフェリーで帰ってきました。

 

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上の写真は旦那の北海道土産です。

車中泊の旅は要冷蔵品を購入できないので、乾物や缶詰、レトルトカレーやお菓子といった保存の利くものがメインでした。

北海道まで行きながら海鮮丼やウニ丼を食べることもなく、ひたすら走り回って道の駅のスタンプを集める旅だったのですが、それでも道の駅は99カ所巡ることができたし、北海道の主な岬や半島を回れたので、「とても楽しい旅行だった」と言っていました。

 

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さて、旦那が旅行している間、私たちは家で何をしていたかというと、昇平に「自立のための特訓」をしてもらっていました。

これまでも将来の自立のために、昇平には風呂の掃除などの家事を担当してもらってきたのですが、それに加えて旦那が旅行の間は、旦那が担当していた「ゴミの日にゴミを集めて出す係」をやってもらうことに。

ゴミの出し方を知らずにいると、ひとり暮らしになったときに家の中がゴミ屋敷になる恐れがあるので、ゴミ出しは自立のために超重要なスキルだと思うのです。

ここ伊達市はゴミの分別方法が7種類と多い方なので、そのやり方を覚えるのも大切です。

最初は慣れない手つきでゴミを集めたり、ゴミ箱に新しい袋をセットするのにとても苦労したり。

でも、旦那が帰ってくる頃には、台所の壁に貼ったゴミ収集カレンダーを前の晩に見て、私にゴミの出し方を確認するようになったのですから、進歩です。

 

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もう一つ、訓練としてやってもらったのが「夕食当番」。

これまでも時々昼食や夕食を作ってもらったりしてきましたが、今回は「仕事で疲れて帰ってきても無理なく作れる夕食」をテーマにしました。

手のかかる料理は時間がかかるから、疲れて帰ってきたときには大変。

だから、ご飯だけは炊いておいて、スーパーに行ってお惣菜を買って、一品だけ何か手作りして、味噌汁などはインスタントでもOK、ということにしました。

週に3回ほど、本人に作りたいものを聞きながらやってもらいましたが、特に「鍋」はそれを作っただけでご飯もおかずも味噌汁もカバーしてしまうので、とても気に入ったようでした。

 

下が実際に彼の作った夕食です。

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唐揚げ(市販の惣菜)、もやしとひき肉の炒め物(手作り)、長ネギ味噌汁(本人の希望で手作り)、漬物(市販品)

 

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ニラたっぷりの辛味噌鍋(手作り)、蒸し茄子(作り置き)、漬物・白桃缶(市販品)

 

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スパゲティナポリタン(手作り)、メンチカツとサラダ(市販の惣菜+カット野菜)、わかめと卵のスープ(インスタント)、漬物(作り置き)、白桃缶(市販品)

 

2人分なら量もあまり多くないし、手作りは1品だけであとは市販品やインスタントでOK、というやり方は気持ち的にも楽だったようで、「意外と簡単だね」と何度も言っていました。

それに、普段料理していない人にとっては、自分が作った料理はとても美味しいのですよね。

今は旦那も帰ってきたので、ゴミ出し当番は終わりましたが、料理だけは継続した方が良いと思うので、週に1回程度のペースで夕食当番を続けてもらっています。

次は来週の日曜日ですが「今度は何を作ろうかなぁ」と言っています。

私も、彼が何を作ってくれるのか今から楽しみです。

2022年12月20日 (火)

息子がホクロを取る手術を受けました

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昇平が背中のホクロのようなものを手術で取りました。

ちょっとお見苦しいですが、写真は抜糸直後の写真です。

右肩の後ろを2センチほど切って、4針縫いました。

(2週間ほど傷を絆創膏で押さえていたので、周囲が少し絆創膏かぶれを起こしています)

 

事の起こりは今から4週間前のこと。

風呂から上がってきた昇平が「背中の『おでき』みたいのが潰れたから見てちょうだい」と言ってきました。

おやおや、また毛穴が化膿したかな?

若いせいか、はたまた毛深い体質のせいか、彼は顔のニキビだけでなく、体のあちこちでも毛穴が化膿することがあります。

 

彼が言うとおり、ニキビが潰れたときのように、右肩の後ろのところで毛穴の根元に穴が空いていました。

ところが、その色が黒いので、あれ? と思いました。

普通の化膿なら、傷や周辺が赤っぽい色をしているはずなのに、穴の側面も底面も黒く見えるのです。

と言うと、とても大きな穴のようですが、実際には直径も深さも2~3ミリ程度です。

化膿したところから出血した血がかさぶたになってる?

いやでも、穴の壁が黒くなってるように見えるし。

試しに押してみても「痛くない」と言うのも気になって、傷に抗生剤を塗って毎日様子を見ていました。

 

傷は数日で塞がりましたが、黒くなった毛穴は、そのまま黒っぽいシミのようなホクロになって残りました。

直径は1センチ弱くらい。

そこまでが5日ほどでした。

やっぱりどうしても気になるので、その旨を彼に話して、週末に皮膚科で診てもらうことにしました。

昇平は病院にドキドキでしたが、母の私も内心かなりドキドキでした。

ネットで調べてみると、皮膚ガンの可能性が否定できなかったので……。

 

はたして、ホクロを見たドクターは「これはしっかり取ってしまった方がいいですね」と言われました。

「今すぐにですか?」

「早いほうがいいでしょう」

ドクターの見立ても私と同じだったようです。

ところが、昇平はまさか今すぐに手術になるとは思っていなかったので、「今すぐですか!? これから!?」とパニックになりかけました。

これは今日は無理だ、と思い、とりあえず今回は様子を見ることにしてもらって診察を終えました。

「様子を見ていて、大きくなってきたり気になったりするようなときには、すぐにまた病院に来てくださいね」とドクターが念を押します。

さらに「これの可能性もありますが」と渡されたのが、「粉瘤(ふんりゅう)」の症状と手術についての説明のプリントでした。

 

会計を待ちながら、そのプリントを見せて昇平に説明をしました。

粉瘤も炎症を繰り返すので、いずれは手術をすることになるし、炎症を起こしているときには手術そのものも術後も大変になることが、丁寧に書かれていました。

それを読んだ昇平は「今日手術すれば、ここまで大変じゃないのかな? それなら、やっぱり今日手術してもらう」と言い出しました。

えっ!? と耳を疑ったけれど、本人がその気になったのならこれはチャンス、と急いで受付に言って、やっぱり手術をしてもらえるかどうかドクターに聞いてもらいました。

ドクターのほうでも「このチャンスは逃してはならない」と思われたのか、すんなりOKになって、まもなく処置室に呼ばれました。

昇平は5年前に毛巣洞(もうそうどう)の手術で医大に2週間入院したことがあるので、また大手術になるのでは、と本当にドキドキしたようです。

20分くらいかかると言われたのですが、実際の手術は10分くらいでした。

患部の周囲を5ミリほど余計につけて切り取って、4針縫って終了。

私は彼のそばで声かけをして安心させていたのですが、ドクターが患部を取り除いて、検査に回すために組織をホルマリンに入れているところも見ていました。

しっかり取り除いてもらえたことが自分の目で確かめられて、私も少し安心できました。

 

「手術にも簡単なのがあるんだね」と帰りの車の中で昇平は安堵。

私は思い切って今日手術を受けることにした彼の勇気を褒めちぎりました。

本当に、すぐ決断してもらえて良かった!

その後、傷が開いたりしないように、抜糸するまでは就労支援事業所での業務を内勤だけにしてもらいました。

おかげで傷もあまり痛まなかったようだし、治りも順調でした。

 

さて、2週間後。

抜糸したあとで、気のなる病理検査の結果を聞かせてもらいました。

切除したものは腫瘍でしたが、皮膚ガンではありませんでした。

あああ、良かった~!!!

 

青色母斑(せいしょくぼはん)というもので、メラニン色素を持った細胞が皮膚の深い方へ増えていくために色が青っぽくみえることもあって、この名前がついているとか。

「青ぼくろ」とも呼ばれるようです。

これにも悪性になっていくものと、そうでないものがあるようですが、検査の結果、悪性ではないタイプだと判明して、本当にほっとしました。

正直、心配しすぎて私は胃が痛くなっていました。

将来悪性になる可能性は否定できないし、医者でも悪性かどうか判断に悩むもののようなので、取ってもらえて本当に良かったと思います。

思い切って手術を受けてくれた昇平の勇気に、改めて拍手です。

 

12月も後半。

昇平が大好きな年末年始が近づいてきましたが、これで安心して年を越せます。

来年はこんな心配はしないですみますように。(^^;

 

・・・おまけの写真・・・

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昨日、ドライブで郡山方面に行って見かけた郡山市富久山町の豊景神社の花手水。

ここはいつも綺麗な季節の花で彩られているので、SNSにも写真がよくあがります。

初めてリアルで見られて嬉しかったです!

 

 

 

 

2022年7月11日 (月)

発達障害があっても投票に参加する

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次男には自閉スペクトラム症とADHDの発達障害があります。

大人になってADHDのほうはだいぶ落ち着きましたが、自分が置かれている状況や社会を総合的に認識することは、自閉スペクトラム症の特徴から、かなり困難です。

それでももう成人年齢なので投票権は有しているし、彼なりに社会に願っていることはあります。

そんな彼に、どうやって自分の意思で候補者や政党を選んで投票してもらうか。

考えて使うようになったのが、上に画像を上げたスマホのボートマッチの活用です。

画像は毎日新聞社のものですが、他の大手新聞社や放送局、インターネットのポータルサイトなども同じようなサービスを行っています。

複数の質問に対して、自分に一番近い考えの項目を選んでいくことで、自分の希望に一番近い候補者や政党が出るようになっています。

今回も、比例代表の政党についてはこれを使って考えてもらいました。

 

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質問はこんな感じですが、内容によっては理解するのがちょっと難しかったり、質問されていることについてそもそも考えたことがなかったりもします。

その場合には彼にわかることばで私が説明したり、「無回答」を選んでもらったりしました。

最終的には2つの政党が同じパーセンテージで一番上にあがってきたのですが、それを見て「前回投票したのと同じ政党があるから、ここにするよ」と自分で決めていました。

前回も今回も同じ政党が上がってきたということは、それだけちゃんと自分の考えを持って社会や政治に希望しているということなんだな、と感心しました。

 

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選挙区の候補者を選ぶのは、各家庭に配布されてくる選挙公報を使いました。

福島県では5人立っていたので、それぞれのプロフィールをざっくり私が説明してから、各候補者の選挙公約を読んで選んでもらいました。

2人の候補者の間で迷っていたのですが、最終的には自分で「どっちも大事なことを言っているけど、フィーリングでこっちかな」と決めていました。

それでいいのだろうと思います。

ボートマッチでの回答を聞いていて思ったのですが、彼はとても平和主義です。

そして、社会のいろんな人に幸せになってもらいたいと思っています。

そういう考え方ができるならば、フィーリングでも、ちゃんと彼なりの意思を反映した候補者選びができているのだろうと思います。

 

日曜日は、スーパーに買い物に行く前に、家族で投票所に回りました。

私も旦那もそれぞれに投票したい候補者や政党があるのだけれど、それを息子には押しつけたくはありません。

だから、ボートマッチや選挙公報の存在はありがたいです。

家族全員でそれぞれの投票をしてきました。

 

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夏になって、ベランダで育てているポーチュラカが咲き出しました。

植えるところがなくて、植木鉢にタネを1袋全部まいてしまったので、ぎゅうぎゅう満員。

ベランダが半日陰なこともあって、徒長ぎみです(汗)

 

でも、こんな風に「種から芽が出て育ってきた」「花が咲いた。嬉しいな」と思えるような平和と安全が、なにより大事なのだと、最近の事件からつくづく思います。

そのためにも自分の意思を国会へ伝えていく選挙は大切。

今回も息子がその権利を無駄にすることなく投票できて良かった、と思っています。

 

2022年6月 6日 (月)

発達障害をめぐる親のジェネレーションギャップ

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ヤマボウシ(2022年5月30日撮影 伊達市立図書館駐車場)

 

先週の金曜日に、伊達市自立支援協議会こども部会の親の会連絡会議が市役所でありました。

その前日には発達障害の親の会の定例会が、土曜日には親の会が定期的に開催している学習会が、どちらもZoomを使ったオンラインで開催されました。

そんなふうに親の会の人たちと集まっていると、最近よく感じるのが「ジェネレーションギャップ」です。

私たちのような、子どもがもう成人年齢になっている親と、子どもがまだ幼稚園や小学校という若い親とでは、環境も状況もいろいろ違うなぁ、と痛感するのです。

 

私たちが子育てしていた時代は、発達障害というものの存在がやっと日本で知られてきた時期で、特別支援教育の体制が整っていくのと一緒に子育てしてきたような状況でした。

発達障害ってなに? ADHDって? 自閉症って、LDって? 親は子どもにどう接すればいいの? 学校には何をどうお願いしなくちゃいけないの?

わからないことだらけで、とにかく必死で情報を集めて、学んで考えて走り続けました。

障がいがある子を預かってくれる場所はなかったし、学童に行けばトラブルが頻発するから、放課後は家で子どもを見るしかなくて、母親は子どもが小学校や中学校を卒業するまで家庭にいることも多かったです。

私もパートや教育関係のアルバイトをしていたけれど、同居の義父母では次男の面倒が見られなくて、仕事は諦めて専業主婦になりました。

 

今は放課後デイサービスという居場所があちこちにあって、学校が終わると送迎してくれるところも少なくありません。

子どもの障害の程度や家庭環境などにはよりますが、障がいのある子の親でもフルタイムで働きやすくなったことは確かです。

学校でも特別支援のニーズが高まっていて、特別支援学級のクラス数がとても増えています。

全体では子どもの数が減っているのに、特に発達障害に特化した情緒障害学級が急増しているようです。

私たちの頃は、やっと情緒障害の学級が知的障害の学級と区分されて独立した頃で、先生方も半ば手探りで指導法を確立している時期でした。

それはそれで、親も先生方も熱意がある人が多くて、専門家や知識の不足はお互いの情報交換で補ったり、海外の進んだ取り組みや新しい指導法を学ぼうとしたりと、とても熱くて積極的な時代でした。

だから「その頃は情報も指導法もまだ充分じゃなかったから大変だったでしょうねぇ」と若いお母さんたちから気の毒がられると、ちょっと違うんだけれどな……と思ったりもするのですが(苦笑)

 

でも、とにかく今はもう、発達障害に関しては基本的な知識が行き渡っているし(ただ、本当の意味で充分理解されているかどうかは疑問がありますが)、学校では特別支援教育が行われるのが当然になっているし、家族のほうでも子どもに合った教育を求めるし、放課後デイという居場所はあるし、学校の勉強を補うための発達障害に特化した学習支援施設も増えてきたし……。

私たちが子育てをがんばってきた時代とは、環境も状況もずいぶん違っているんだなぁ、と実感させられるのです。

そんな中で、私たちの子育ての経験は、今の若い親たちに何か参考になるんだろうか?

そんなことも考えてしまいます。

 

これって、祖父母の世代と親の世代の、一般的な子育てに関するギャップと似た構図なのかもしれません。

祖父母と今子育て中の親とでは時代が違うから、祖父母が「ああしたほうがいい」「自分たちの頃はこうだった」という経験談が、今の親たちには通じないというか、響かないというか……。

それと同じことが「発達障害のある子の子育て」という世界でも起きているのかもしれないです。

だから、若い親たちと交流する場に出ると、ジェネレーションギャップを感じてしまうのかも。

 

「私たちの頃とは時代が違うんだわね」とは、相談会の手伝いに来てくれたNさんが、相談会の後でぽつりと洩らしたことば。

彼女はうちの次男より5つ先輩のお子さんのお母さんで、地域で長年発達障害の親たちのとりまとめをしたり、子どもたちのために活動をしてきたりした方でした。

「私たちはもうそろそろ引退なのかも」と言ったのは、また別の、やはり親の会など複数で役職を務めているKさん。

やっぱり若い親たちと自分たちの間のギャップを感じているようでした。

かくいう私もそうであるわけで。

「自分たちも苦労してきたから、困っている親がいたら手伝ってあげたい。自分たちが経験したことが役に立つなら、とは思っているんだけどね」と言いながら、思うように力になれなかったという顔で帰っていったNさんを思い出しています。

私たちの経験はもう役に立たない──もしかしたら本当にそんな時代になってしまっているのかもしれません。

 

それでも、私たち自身は今でもまだまだ悩みの中で、子どもは成人したけれど、今もまだ子育ては続いています。

社会性に困難を抱えていたり、大人になっていくのがゆっくりだったりする子どもたちなので、今の私たちの一番の関心事は、「子どもの就労や自立」と「親亡き後の子どもの将来」です。

これに関しては、今でも社会制度は十分ではないし、福祉政策なども毎年のように変わっている状況なので、私たちは学び続けなくてはいけないし、考え続けなくてはいけません。

同じような子育てをしている親同士のネットワークは重要だし、子どもが結婚してそこに子ども(=孫)が生まれたら、その子ども家族との関わり方という課題も発生してくるから、なおさら同じ立場の親同士のつながりは大事になってくる気がします。

同じ立場同士わかり合えるという、ピアな関係のニーズは続いています。

 

若い人たちの子育ての悩みは若い人たち同士や、学校や病院や支援施設のような専門家との関わりに委ねて、私たちは私たちの年代の課題に取り組むべき段階に来ているんだろうか……?

みんなフルタイムで働いているから、親の会活動に新たに加わる親も減っているわけだし……。

答えはまだわからないけれど、そんなことを考えている今日この頃だったりしています。

 

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ある日の青空。悩んだときに空を見ると落ち着きます。ふぅ

 

2022年3月28日 (月)

トライアンドエラー~息子バス通勤に挑戦する

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3月16日深夜の強い地震の影響で、阿武隈急行線が運休になってしまいました。

線路や施設にもかなりの被害が出ているようで、伊達市から福島市に出る方面の復旧は今のところ目処が立たない、という発表が。

きゃ~、どうしましょう!?

昇平も旦那も福島市に出勤するのに毎朝利用しているんですけど!!?

 

道路もあちこち被害が出ていて、伊達市の大部分から国道4号線や福島市に出るために阿武隈川を越える橋も、いくつも通行不能になっています。

こちらも大がかりな修理や架け替えが必要になりそうな状況ですが、幸い通行可能な橋も全体の半分くらいはあるので、路線バスは走っています。(橋が通れなくて途中のコースを変更している路線もあります)

当分通勤には路線バスを使うしかなさそうです。

 

11年前の東日本大震災の直後にも阿武隈急行は長い間運休になって、昇平は福島市内の高校に通うのに路線バスを使いました。

が、問題はその後、我々が引っ越しをしたこと。

以前の家の近くを通るバスは1路線しかなかったので、本数は少ないのですが、覚えるのは簡単でした。

でも、今住んでいる場所には4路線バスが来ます。

「こう書いてある方面のバスに乗るんだよ」「乗換アプリのここをこうすると時間と停留所がわかるからね」といろいろ教えて送り出しました。

 

月曜日は春分の日で休みだったので、火曜日が初日でした。

旦那と一緒にバスに乗り、帰りは事業所の近くの停留停からひとりでバスに乗って、ちゃんと帰宅できました。

「新しいことにチャレンジするのって楽しい!」と昇平はご機嫌。

こちらも、うまいこといきそうで良かった、とほっとしました。

 

翌水曜日。

この日は遅出の日なので、彼ひとりでバスに乗って出勤しましたが、問題なく福島市内に出ることができました。

水曜日は事業所が半日なので、帰りのバスも彼ひとりです。

停留所で待ちながら私と、その日決定した大阪・関西万博のイメージキャラクターのことなどLINEでやりとりしていたのですが、そのうち急に

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というLINEが彼から。(地名や固有名詞等は消してあります)

前日乗ったバスと路線が違うバスだったので、逃してしまったのでした。

詳しく聞いてみると、それ以前のバスも逃していて、調べたら次のバスはなんと1時間後。

その日はとても冷たい風が吹く日で、昇平はがっかりするやら寒いやら。

幸い歩いて駅前に行ってもそれほど遠くない場所なので、駅のカフェで温まって時間を待つことにしました。

本人曰く、パニックになりそうなのを必死で我慢して歩き、暖かいカフェオレで落ち着くことができたそうです。

やれやれ、よかった、と思ったのですが……。

 

再び、いや三度彼は乗り損ねてしまいました。

確認しなかった私も悪かったのですが、本人は「事業所に近いバス停から乗る」ことにこだわっていて、せっかく路線バスの始発の駅前まで来ていたのに、またさっきのバス停に戻っていたのでした。

その停留所にはたくさんの路線のバスが次々やってくるので、バスに乗り慣れていない彼には、行き先を見分けるのが大変だったようです。

※彼が言う「バスに書いてある乗り場」とはバスの行き先表示のこと

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めげながらがんばってまた駅の東口へ戻り、そこからやっと正しいバスに乗って帰ってきました。

お疲れ様。

 

さて、翌日の木曜日。

この日は早出で帰りも遅い日なので、行きだけでなく帰りも旦那と一緒のバスになりそうな日でした。

「仕事が終わったので気をつけて帰宅します」とLINEも来たので、そろそろかな、と思っているところにピンポーンとチャイム。

ところが、帰ってきたのは旦那がひとりだけでした。

「あれ、昇平はまだなのか?」

「さっき帰宅するってLINEはあったんだけど。駅から乗ったはずだから、あなたの次のバスになったのかも」

ちょっと心配になって昇平にLINEしてみました。

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うん、大丈夫。

こちらに向かっているね……と待っていると、また彼からLINEが来ました。

 

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自分が住んでいるところとは違う地名になって、乗り間違えに気がつき、急いで下りてバス停の写真を送ってきたのでした。

調べてみたら、彼が乗る予定だったバスの5分前に同じ乗り場から出るバスに乗ってしまったようです。

グーグルマップで停留所付近を見ながら、急いで彼に電話をしました。

「その場所の近くにセブンイレブンがあるよね? お父さんが車で迎えに行くから、そこで待っていて」

「セブンイレブンは見つからないです。○○ってスーパーはある!」

「あ~、それじゃそのスーパーの入り口で待っていて」

旦那、あわてて車で迎えに行きました。

到着するまで時間がかかりそうだったので、ただ待っているのは不安だろうと思い「お父さんが来るまでの間、スーパーでおやつでも買っていたら?」とLINEしたら、「今スーパーから出てきたところです」という返事。

私が言うまでもなく自分の判断で夕食後のおやつを購入していました。

このちゃっかりしたたくましさが彼の強みです。(^^;)

 

帰宅後、さすがに自信をなくして「明日からはお母さんに車で迎えに来てほしい…」と言い出しましたが、それはきっぱり断りました。

今はまだ私が福島まで迎えに行くことも可能ですが、それをやっては、いつまでたっても彼は自分でバスに乗れるようになりません。

阿武隈急行はやがて復旧するでしょう。

でも、急に電車が運休になったときに、バスに乗れないとやっぱり困ります。

少し厳しいかもしれないけれど、慣れさえすれば必ず乗れるようになる人なので、あえて突き放して自分で乗るように励ましました。

本人も「このままだと一生バスに乗れなくなりそうだから頑張ってみる」と言ってくれました。

「失敗は成功体験で上書きしないとね」と言うと、「うん」とうなずきます。

 

彼が正しくバスに乗るためには、行き先をきちんと見極めるのがポイントのようです。

そこで、アプリで行き先を確かめるだけでなく、利用する時間帯のバスの行く先と発車時刻・降車時刻と乗り場番号を一緒に確認して、全部メモに書いていきました。

さすがの昇平も本気です。

全部書き終えるのに30分以上かかりましたが、メモが完成したとき、「うん、今度こそ大丈夫かもしれない」とようやく笑顔になりました。

 

さて、金曜日。

行きは問題なく出勤。

問題の帰りのバス。

駅前から「今から7分後に来る○番乗り場の△△経由××行きのバスを待っています」とLINEが来ました。

そして十数分後

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ちゃんと正しいバスに乗り、その後の停留所から父も乗ってきたので、「このバスで大丈夫」と確信したようです。

よかったよかった。

一安心です。

 

何度も乗降していれば、バスの行き先の見極めにも慣れてきて、事業所に近いバス停からでも乗り降りできるようになることでしょう。

メモではなくアプリを見ての乗降もできるようになれば、行ったことがない場所にもバスを利用して行けるようになります。

そのためには何度も成功して自信をたくさんつけるのが大切なので、今は丁寧に確認を取り合いながら見守っていこうと思います。

 

今日も間もなく昇平が帰ってきます。

正しいバスに乗ったとLINEで連絡がありました。

スマホは本当にありがたい、ともつくづく思っています。

 

【おまけの写真】

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伊達市でも河津桜や水仙が咲き出しました。(伊達市保原町紅屋峠:3月27日撮影)

 

2022年1月31日 (月)

お弁当と偏食の思い出

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写真は昇平(左)と旦那(右)の今日のお弁当です。

メニューは焼き紅鮭、卵焼き、ちくわ、カニクリームコロッケ、ベビーチーズ、大根葉の炒め煮、キュウリ浅漬け、ミニトマト、ごま塩ご飯。

月曜日から金曜日まで毎朝、朝食と一緒に2人分のお弁当を作ります。

なんてことない普通のお弁当だし、既製品もよく使いますが、基本的に2人の好むものを入れるようにしています。

昇平が言うには「お昼の弁当は好きなものを安心して食べたい」のだそうです。

 

ただ、昇平のお弁当を改めて見たとき、「よくこれだけいろいろ食べられるようになったなぁ」と感心してしまいます。

小さい頃の彼は本当にものすごい偏食だったのです。

と書くと「うちもそうだったわ」という声が聞こえてきそうなのですが、発達障害のある子の偏食は、一般的な偏食とはちょっとレベルが違います。

昇平が食べられたのは、白飯(なにか混ぜるのはNG、ふりかけもダメ)、素うどん、素スパゲティ(ソースを絡めたのはダメ)、味噌汁に入ったお麩、小さいクリームパン(チョコパン、あんパン、ジャムパンなどはダメ)、鶏の唐揚げ、醤油で味付けして焼いた肉、緑の皮の部分を向いたスライスキュウリ……え~と、だいたいこれでおしまい。

当時、彼が食べられるものを数えると、両手の指であまりが出ました。

 

野菜はほとんど食べませんでした。生野菜は特にダメで、かろうじて食べてくれたのがスライスしたキュウリ。それも皮を取り除かないと食べませんでした。

味噌汁も大嫌いでしたが、味噌汁に入れた麩だけは好きで、家族全員の分を独り占めするくらい食べました。

麩も含めて「白いもの」が好きでした。

白いものは余計なものが入っていないから安心して食べられる、と認識していたのかもしれません。

 

病院で主治医に相談をすると「周りが見えてくるようになると自然と食べるようになりますよ」という話。

なので、昇平が食べなくても家族はそれに合わせることはしないで、とにかく普通の料理を作って食卓に出してきました。

三世代同居だったので、魚料理や野菜料理も多かったです。

 

そうやっているうちに、成長と共に「これを食べてみようかな」「これも味見してみようかな」と言う時期が訪れ、少しずつ少しずつ食べられるものが増えていって、大人になった今では、調理法や味付けさえ口に合えばだいたい何でも食べられるようになりました。

どうしても苦手で食べられないのは納豆。でもこれは苦手な人が多いですよね。旦那も納豆は苦手です。

あまり得意でない調理法は「あんかけ」。特に中華風や和風のあんかけは得意ではないようです。

テリヤキバーガーも、和風の照り焼きソースがどろっとしているので、自分では注文しません。

カボチャやサツマイモや人参のような、火を通すと甘みが出る野菜も苦手。ただカボチャのケーキやスイートポテトのようにスイーツにすると喜んで食べます。

人参は細切りにすれば大丈夫で、人参のしりしりなどはもりもり食べてくれます。

ほうれん草やニラのような、ちょっと癖のある野菜は大好き。

にんにく、生の玉ねぎ、生姜、唐辛子のような刺激のあるものも大好物です。

何かの調理法や味付けが大丈夫になったら、それを使って苦手だった食材を調理して出すと、食べられることが増えました。

今では納豆以外はだいたいなんでも食べてくれるので、お弁当作りもあまり苦にならなくなりました。(納豆はお弁当に入れませんしね。笑)

 

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写真は先日作ったカナガシラという魚の南蛮漬け。人参、玉ねぎ、生姜がたっぷりでかなり酸っぱ辛いのですが(私の好み)、昇平も喜んで食べてくれました。

本人に周りを見る力が育ってきたときに、家族がいろいろなものを美味しそうに食べる様子を見せられたのが良かったんだろうな、と思っています。

周りを見る力が充分育っていないうちに強制的に偏食を治そうとしたら、逆にこじれたのかもしれません。

 

Doudan

今日で1月も終わり。

2月3日は節分で、翌日から暦の上では春になりますが、まだまだ寒い日は続きます。

雪もだいぶ溶けましたが、日陰や駐車場の端などには雪が残っています。

風も冷たいですが、ふと見たら、植え込みのドウダンツツジに赤い芽が膨らんでいました。

どんなに寒くても、春が近づいてきているのを感じているのですね。

 

早く暖かい春がやってきますように。

そして、新型コロナの感染拡大が早く落ち着きますように。

そう願っている毎日です。

 

2022年1月17日 (月)

オンラインを活用した親の会活動

Line

私は現在2つの親の会に役員として参加しています。

ひとつは『福島とーます!』という発達障害の子を持つ親の自助団体。

もうひとつは『FDFチャレンジの会』という、現在息子が利用している就労支援事業所の保護者会。

親の会(とーます)では広報を、保護者会のほうでは会長を担当させてもらっています。

そして、どちらの会も、一昨年からの新型コロナのために活動を大きく制限されています。

 

親の会も保護者会も、同じような子を持つ親たちが会って話して、つらかったり困ったりする気持ちに寄り添ったり、相談に乗ったり、情報を共有したりすることが活動のメインです。

子どもの理解や支援のために、学習会も開催します。

親の会では親子のお楽しみ会やお泊まり会、調理実習などを長年続けてきたし、事業所の保護者会でも事業所のスタッフと協力して新年会やバザーを開催してきました。

子どもたちが大きくなってからは、親たちと顧問の先生方とで温泉旅館で忘年会もできるようになって、それが年に1度の楽しみでした。

でも、それが新型コロナのせいで、どれもすべてできなくなってしまいました。

 

「これからいったいどうしよう?」

役員は途方に暮れました。

集まりたいし話したい。でも感染は怖い。

感染が収まるまで待っていて子どもの問題に対処できなくなるのが不安だし、せっかくできた親同士のつながりが切れていってしまうのも怖い。

どうしよう、どうしたらいい?

そう考えて出た答えは、職場などで実施されているのと同じ「オンライン」でした。

 

親の会のほうは、幸い以前から会員間の連絡用にLINEを使っていたので、それを拡充していきました。

顔を合わせてのミーティングや学習会も開きたかったので、ZOOMも導入しました。

どちらも、LINEやZOOMに慣れている会員がいたので、その人を核に不慣れな人や未経験者を巻き込む形で広げていきました。

それでもZOOMなどはまだハードルが高いようで、参加できているのは会員の半分くらいですが、参加できた人たちでオンライン忘年会やオンライン暑気払い(飲み会)も開催しました。

 

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ZOOMは経験者がホストになって、LINEやメールを活用しながらひとりずつに導入や接続テストを行いました。

親の会のメンバーは女性がほとんどで、ITに苦手意識がある人も多いので、丁寧で親切な対応が成功の鍵のように感じます。

おかげで親の会のほうはコロナ消滅の危機を逃れた、と個人的にですが、思っています。

LINEやZOOM導入の核になってくれたメンバーには本当に感謝です。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

一方、事業所の保護者会のほうは、コロナの感染拡大と同時に休会に入ってしまいました。

それでも事業所で実習をがんばる我が子たちを応援したくて、誕生会やクリスマス会などに保護者会から飲み物(ジュースなど)を提供する、という活動だけは続けてきました。

昨年後半になってワクチン接種も進んで感染者が減ってきたので、「次年度は活動が再開できるのでは」と期待していたのですが、残念ながらオミクロン株による第6波が到来。

新年度もまた集まっての活動が難しくなってしまいました。

 

もうこのままではいけない! このままでは保護者会が消滅する!

そんな危機感から、つい先日、保護者会のほうにも役員三役のグループLINEを立ち上げました。

LINEをしていない役員もいたのですが、お願いして導入してもらいました。

それまではメールでの連絡網しかなかったのですが、グループLINEなら相談も簡単にできます。

令和4年度も引き続き活動は休止することに決まったのですが、半年経ったところで状況を見て、再開できるかどうか役員で検討することになりました。

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また、4月から福島駅前の再開発工事が始まるので、事業所そのものが別の場所に移転するのですが、保護者が集まって説明を聞くことができないので、それも動画で配信するよう所長にお願いしました。

今はほとんどの保護者がスマホを持っているので、動画なら見られるはずです。

所長にも「その方向でやらせていただきます」と言っていただけました。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

どんなにオンラインの技術が発達しても、こういう会においては、対面での集まりに勝るものはありません。

だから、オンラインが本来の活動を超えることはできないのですが、コロナのせいでできないというのであれば、可能なこと、できることを精一杯探してやってみるのは、大事なことじゃないかな、と感じています。

一番大事なのは親同士のつながりを切らないこと。

こういう子育てをしている親は自分だけじゃないんだと思うだけで、勇気も元気も湧いてきますから。

 

まだもうしばらくコロナに邪魔される日々が続きそうですが、諦めずに使える手段を活用して、細く長く活動を続けていきたい、と思っている令和4年です。

 

2021年12月 6日 (月)

料理と自立の力

「今日は何も予定がないから、私がお昼を作りたいな」

と日曜日に昇平が昼食を作ってくれました。

メニューは大好物のペンネ・アラビアータ。

過去に何度も作ったことがありますが、今まではそばで私が様子を見守りながらの調理だったので、今回は完全に自分だけで作ってもらいました。

 

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レシピを見ながら自分で揃えた材料。

置き場所がわからないものを聞くときだけ、私を呼びました。

「ベーコンは厚切りを使って、ハーブを利かせたパスタにしたい」と言っています。

 

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真剣に調理する昇平。(顔出しNGなので一部画像処理しています)

にんにくをみじん切り中。

背が高いので調理台が低くてちょっと大変そうです。

 

この写真を撮った直後、まだ沸騰していないお湯にパスタを入れようとしたので「まだ早いよ! もっとこう、ぐらぐら湧いてからいれるんだよ」と一言だけアドバイス。

「沸騰」の状態を今回初めて認識したようです。

 

その後は完全にひとりだけで調理。

私は別室で自分の作業をしていたら、「できたよ!」と呼ばれました。

あら、早い。

 

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できあがりはこちら。

昨夜の残りのポトフを温めて添えました。

 

Img_0584

彼のお皿はこっち。もちろん大盛りです。(笑)

ハーブを利かせたい、と言っていた通り、にんにく、バジル、ローズマリー、ローリエといろいろなハーブの香りがミックスして、とても美味しくできあがっていました。

本人も出来映えに大満足。

そして、完全に自分だけで作れたということに、また満足。

「私もやればできるんだね」

「そう、君はもう、その気になればできるようになってるんだよ」

と私は後押し。

 

 

彼は基本的に私への依存心が強いです。

これまでずっと目をかけ手をかけて育ててきたのは母親の私なので、「お母さんの言うことに従っていれば間違いない」と思っているようだし、「なんでもお母さんが手伝ってくれる」と思っている節もあります。

でも、今はそれでよくても、20年後には私は年を取ってしまって、それができなくなっている可能性は高いです。

私はもうこの世にいないかもしれない。

今のままの関係でいたら、そのときに昇平が困ってしまいます。

 

そこで、最近はできるだけいろいろなことを昇平自身にやってもらうようにしています。

今回の料理のように、やってみれば自分だけでできることもたくさんあるのです。

彼に必要なのは、自分でやってみようとする気持ちと、成功体験を通じて得られる自信なのでしょう。

小さなこと、日常のことでいいから、いろいろ自分だけでやってみて、自立の力をつけていってほしいと思っています。

 

 

(おまけの写真)

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農家をしている親戚から届いたリンゴ。

甘くて美味しいです。

毎日夕食後のデザートにいただいています。

ここ伊達市に嫁いでから、果物は買うものではなく、もらって食べるものになりました。(笑)

 

2021年11月 8日 (月)

彼が発達障害になった原因と後悔

 

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(カランコエの二番花。満開になりました。)

 

これまで何度も書いているとおり、我が家の次男坊の昇平には発達障害があります。

障害がわかった3歳の頃から、就労支援事業所に通っている現在までの20年間の道筋は、「発達障害てくてく日記」の本に載せたとおりなのですが、そこに書き切れなかった「彼が障害を負ってしまった理由」とそれに関連することを、今日は書いてみようと思います。

今までにも何度も書こうとしたけれど、うまく書けなくて、公開する前に削除してしまった内容です。

 

1995年8月、昇平は総合病院の産婦人科で産声を上げました。

とても元気な泣き声でしたが、その時点で彼はもう障害を負っていました。

陣痛微弱で入院したのにお産が始まらず、予定日を1週間過ぎてもまだ生まれないので一度家に戻され(そのとき私は郡山市内の実家にいました)、翌日病院へ診察に行った際に破水……したらしいのですが、高位破水だったので、ドクターも看護師も私も気がつかずにそのまま帰宅。

ところが、家で過ごしていてもなんだかおかしい。

水がちょろっと漏れるような感覚がするけれど、いわゆる破水のような大量の水は出ない。

病院に電話してみたけれど「大丈夫ですよ」の答え。

一晩様子を見て、やっぱり気になるから、と病院へ行ってみると、陣痛が始まっていたので、そのまま入院。

日付が変わる直前の深夜に、自然分娩したのでした。

産声は本当に元気で、産室いっぱいに声が響き渡りました。

でも、陣痛が本格的になってきたから助産師が羊膜を切って破水させようとしたら、もう羊膜がなくて焦ったとか、出産の際に排出された羊水が濁っていたとか、高位破水のせいで昇平は新生児肺炎を起こしたのだとか、お産が深刻な状況だったことを後から聞かされました。

 

出産した翌日、初めてお乳をあげました。

初乳はあまり量が出ないので粉ミルクで補うのがその病院のやり方でしたが、昇平はびっくりするような勢いでミルクを飲んで、あっという間に飲みきってしまいました。

同じ頃に生まれた他の赤ちゃんは、まだ飲むのがうまくなくて、とても時間がかかっているのに。

どうしてこんなにこの子は早いんだろう? と思っている間に、彼は新生児肺炎を起こして熱を出し、産婦人科から小児科の病棟に入院してしまいました。

そこでも彼は看護師さんが飲ませてくれるミルクを速くたくさん飲み、空気もいっぱい呑み込んで、せっかく飲んだミルクを大量に吐くようになりました。

それを繰り返すうちに、彼はミルクが大嫌いになってしまい、時間をかけないと飲めない(ということは、吐くことがあまりない)母乳しか受け付けなくなりました。

離乳食もあまり食べなくて、母乳ばかり飲んでいたので、10か月になる頃には母体の私が弱ってしまって何度も倒れる状況になりました。

これではどうしようもない、と強制的に断乳して、やっとまともに離乳食を食べ始めたのが1歳前のことでした。

 

どうしてミルクや離乳食の話をしているかというと、彼が生まれた翌日にはもう、障害がはっきり現れていたことをお知らせしたいからです。

その後の新生児肺炎などのせいで発達障害になったのではありません。

生まれたその時点で彼はもう障害を負っていて、まともにミルクを飲むことができなかったし、極端な偏食もすでに始まっていたのです。

 

時間が前後しますが、昇平は母親の私より1週間ほど遅れて、病院の小児科病棟を退院しました。

そのとき、主人と私で迎えに行ったのですが、産婦人科のドクターから、上に書いたようなお産のときの状況を聞かされ、「将来なにかしらの症状が出る可能性があります」と言われました。

そうなったときにも、病院から保障などは出ない話もされました。

高位破水による障害は、普通の破水と違って専門家でも気がつきにくいので、病院の責任とはされないということでした。(こんな風には言われませんでしたが、内容を要約するとそういうことでした)

でも、私も主人もその話を聞いて、「将来出るかもしれない症状」というのが「一生涯背負うことになる発達障害」のことだとは思わなかったのです。

まだ発達障害ということばが使われていなかった時代です。

私たちには知識がまったくありませんでした。

退院してからも、昇平は気管支がとても弱くて、しょっちゅう喘息のような症状を起こしていました。

気管支炎を起こしては呼吸困難になるので、私は苦しがる彼を一晩中抱いて柱にもたれて寝ていました。

「将来出るかもしれない症状」とは、そういう慢性気管支炎のような、身体に出てくる障害のことなのだと思っていたのです。

 

今ならわかります。

昇平は、高位破水のせいで外界とつながってしまった子宮の中で感染症を起こして、脳にダメージを受けてしまったのです。

遺伝的のような、そもそも生まれ持ってきた要因もあったかもしれません。

けれども、発達障害になった直接の原因は、高位破水に気がつかないまま24時間以上経過してしまったために起きた感染症だったのです。

ただし、世の中の発達障害を持つお子さん全部が、こんなふうに、出産時のトラブルで障害を負っているわけではありません。

こんなふうにはっきりしているケースはむしろ少なくて、普通に生まれ、普通に育ててきたのになんだか育てにくい、他の子と発達の様子が違う……ということで発達障害だと気がつかれるお子さんのほうが、圧倒的に多いです。

 

その後も昇平の子育ては悪戦苦闘でした。

6歳上の長男のときにはこんなに苦労しなかったのに、どうしてこの子はこんなに育てにくいのだろう? と思い続けましたが、それが障害なのだとは夢にも思いませんでした。

離乳食が進まない、夜泣きがひどい、多動で危険、指示が通じない、話し言葉もほとんど出ない、しつけができない、しょっちゅうパニックを起こす……。

そんな彼に診断がついたのが3歳の時。

その時点では多動・衝動性のほうが強かったので「ADHD」と言われましたが、自閉の特徴も強く、その後、成長するにしたがって多動性や衝動性は落ち着いていって、今は「自閉スペクトラム症」が主診断名になっています。

病院や保育園や学校、親の会といろいろなところと連携しながら奮闘した日々は、これまた「発達障害てくてく日記」の本の中に書いたとおりなのですが。

 

不思議なことに、私は病院でドクターからされた「将来出るかもしれない症状」の話を、これっぽっちも思い出さなかったのです。

診断が出てからも思い出しませんでした。

毎日毎日、とにかくできることを見つけて考えて、根気強く働きかけながら育てていく繰り返し。

ある日、本当に突然、はっと記憶がよみがえってきて、「もしかしたら、あの時のあれが原因だったのでは……!?」と気がついたのは、子育ての一番大変な時期を過ぎた後のことでした。

昇平はもう高校生になっていました。

 

もしかすると、私が記憶を封印していたのかもしれない、とも思います。

思い出してもいいはずなのに、あんなに綺麗に忘れていたのは、思い出してしまったら後悔のほうが先に立って、大事な「今日と明日のための子育て」の力が失われてしまう、と無意識のうちにわかっていたのかも。

実際、それを思い出してしまってからは、私はずっと後悔しています。

高位破水が起きるのはどうしようもないことです。

でも、家に帰ってから「なんか変だ」「なんかおかしい」と感じていたのだから、もっと早くそれを伝えていたら、もっと早く入院できて、破水にも気がついてもらえたかもしれません。

病院に電話をして「大丈夫ですよ」と言われて引き下がったけれど、あそこで「いえ、やっぱりおかしいです! 気になります!」と強く言い張ったら、病院側でもしかたなく受け入れてくれたかもしれません。

いや、そもそも陣痛微弱で1週間も前から入院したりしたから、病院側でも「またか」と思ったのだろうから、あんなに早くから入院しなければ良かったのかも……。

ずっと、繰り返し繰り返し、そんなことを思います。

どんなに「それは仕方がなかったこと」「私のせいでも病院のせいでもない」「あそこでがんばっても、きっと結果は変わらなかっただろう」と考えても、やっぱり後悔してしまうのです。

昇平自身は自分の障害を受け入れていて、私たちのことを恨んだりしてはいないのですが、それでも「あの時、ああしていれば、もしかしたら……」と折に触れて私は思います。

たぶん、この後悔は一生涯ついて回るのでしょう。

 

これが、子育ての一番大変だった時期に気がついていたら、どうなっていただろう、とも考えます。

先にも書いた通り、後悔が強くなりすぎて、悲嘆に暮れたり鬱になったりして、子育てをがんばる力が失われたような気がします。

ずっと昇平と一緒に前向きにがんばってきたけれど、こんなに前向きではいられなかっただろうと思います。

だからこそ、私は無意識のうちに記憶を封印していたのかも。

記憶がよみがえったのは、昇平がつらい時期を乗り越え、将来に希望を持ち始めたちょうどその頃でした。

「もうそろそろ思い出してもいいかもしれない」と私自身が封印を解いたのかもしれません。

無意識に。

 

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上の写真は、先週の土曜日に昇平が一人で仙台へ遊びに行って買ってきてくれた商品です。

我が家は主人も私も昇平もポケモンが大好き。

仙台駅前のポケモンセンターで「こういうものを買ってきて」と昇平に頼んだら、「頼まれたものはなかったんだけど、代わりに近くていいものを見つけて買ってきたよ」と選んできてくれたのでした。

電車に乗って仙台まで行くこと、仙台駅前をひとりで行動すること、帰りの電車の時間を時刻表アプリで調べること、時間に間に合うように駅へ行くこと、自分の行きたい店(ゲーセンや本屋)を見つけて遊ぶこと、お昼を食べること……。

はじめは私や主人と行ってやり方を覚えたけれど、今ではすっかり慣れて、しっかり遊んで仙台を満喫して帰ってきました。

 

彼がまだ小さかった頃に、障害の原因を意識していたら、こんなふうに育てることができただろうか? と思います。

親の後悔を子どもは敏感に感じ取ります。

障害を自分自身のせいのように感じて、自分に自信を持てない人間に育ったかもしれません。

怖くて不安で、仙台に一人で行くことなんてできなかったかもしれません。

だとしたら、やっぱりあの時の記憶は、前に進む道がはっきり見えるまで封印しておいて正解だったのでしょう。

過去がどうであっても、子どもは、人間は、今と未来を生きるものです。

未来に生かせる過去の振り返りは大事だけれど、ただ後悔するだけの振り返りはほどほどにして、そこにとらわれずにまた前を向いていけたら、と思います。

 

今日の日記は意味がわかりにくい文章になったかもしれません。

ただ、これを推敲するうちに、また「やっぱり公開するのはやめよう」と思い始めたり、ボタンの押し間違いで消えてしまったり(ということも過去に何度もありました)すると大変なので、このまま公開することにします。

 

願わくば、昇平がこれからも自分の障害と二人三脚で前向きに生きていってくれますように。

 

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