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2024年3月

2024年3月19日 (火)

「アレグレット」の独立と最近の親の変化

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この4月から「アレグレット」が発達障害支援の会『福島とーます!』から独立します。

経緯はとても複雑なのですが、簡単に言うと、『福島とーます!』の伊達支部だったアレグレットが、伊達市に拠点を置く親の会として正式に独立する──ということになると思います。

 

これまでも勘違いされる方が時々いらっしゃったようですが、『福島とーます!』は私が立ち上げた会ではありません。

立上げは今から23年前の2001年。

会の代表を経て現在は顧問のYさんから、「今度福島県にADHDの会を立ち上げるんだけど、朝倉さんもまざらない?」と声をかけてもらったのでした。

 

私は複数いる役員のひとりで、役職は広報。

ニュースレターを発行したり公式ブログを更新したりするのが、私の仕事でした。

2004年1月に家族会員の支部制が始まってからは、伊達支部「アレグレット」の支部長も務めました。

 

そんなわけで、今後私は『福島とーます!』からは抜けて「アレグレット」のほうに関わっていきます。

『福島とーます!』のほうは、今後は会員制をとらずに、福島県から情報を発信したり、学習会や講演会をコーディネートしたりする、新しい活動スタイルに転向する計画だそうです。

 

というところで、何故こんなふうに会が分かれることになったのか、ということなのですが……

最近の発達障がいを取り巻く状況に変化が生じていることが深く関係しているので、その報告も兼ねて書いてみたいと思います。

少し長い話になりますが、よければお付き合いください。

 

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23年前、『福島とーます!』(以下『とーます!』)が立ち上がった頃、日本中では発達障害への関心が非常に高まっていました。

知的障害の存在は昔からよく知られていましたが、知的に遅れがないのに発達のアンバランスから困難を引き起こす発達障害は、それ以前には、ほとんど知られていませんでした。

「普通に見えるのに障害がある!? ADHD!? 高機能自閉症!? 広汎性発達障害!? それっていったいどういうもの!?」

新しい障害の概念に、医者や心理士、療法士といった専門家だけでなく、保健師や、学校や幼稚園や保育園の先生、我が子の発達状態に不安や疑問を抱えていた親たちまでが、こぞって学び、実践し、研究を深めていきました。

今では日本中どこでも発達障害ということばがおおむね通じて、特別支援教室や通級、放課後デイサービスなども当たり前のように存在していますが、それは二十数年間の、本当に大勢の人たちの努力と働きかけの上に築き上げられたものなのです。

 

ところが、福祉サービスが充実してくると、それに反比例するように、子どもへの親の関わりが減ってきました。

政府の働き方改革の方針に基づいて、女性が生涯職場で働き続けられるようになり、大半の家庭が夫婦共働きになったことも、その一因だろうと思います。

私たちが現役で子育てをしていた頃は、子育てのために職場を辞める女性はけっこういました。

障害がある我が子のために親、特に母親が仕事を諦める、ということもざらでした。

 

かくいう私も、家庭で息子の世話をできる人がいなかったので、パートを諦め、学習塾でのアルバイトも辞めて完全な専業主婦になりました。

放課後デイサービスがまだなかった時代です。

児童館に預けても周りの子たちとトラブルになるので、受け入れてくれる児童クラブを探し、頭を下げまくってやっと受け入れてもらったこともあります。

それも小学校3年生で終了で、今のように義務教育終了まで利用することはできませんでした。

頼みに頼み、拝みに拝み倒して、息子は小学4年生まで利用させていただきましたが……。

 

母親が自分を犠牲にしてまで子どもの療育に関わった、素晴らしい親の愛の時代だ、なんて自分たちの子育てを美談化するつもりはまったくありません。

今の親たちの愛情が昔より薄れているとも、絶対に思いません。

あの頃に今のような福祉サービスがあったら、私だって間違いなく利用して働き続けていたはずです。

 

ただ、親が共働きでいれば、どうしたって子どものために使う時間は限られてしまいます。

休みだって簡単には取れないし、せっかく休みを取っても用事が入ったりで、予定していたことができないこともあるでしょう。

私たちの頃も親は忙しかったけれど、今の親たちはもっと多忙です。

 

さらに、社会での活動や交流は平日の勤務中にすることであり、休日は家族や個人が自分たちの楽しみと休養のために使う時間、という価値観の変化も起きています。

コロナ禍の自粛で社会的な活動が制限されてから、その変化はいっそう大きくなった気がします。

 

その状況で、親はどのくらい子どものために時間を割くことができるか。

親たちが昔のようには療育に熱心になれなかったり、親の会の活動に参加できなくなったりするのも、当然と言えば当然の変化なのかもしれません。

いえ、それは発達障害がある子どもたちの親に限らないのでしょう。

最近では、学校のPTA活動も役員を引き受ける親がいなくなって、成り立たなくなってきたと聞いていますので……。

 

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話を『とーます!』と「アレグレット」に戻します。

『とーます!』でもこのところ、会員の減少が著しくて、これまでのような活動を続けていくのが難しくなっていました。

素晴らしい先生方を講師に招いてペアレント・トレーニングの学習会を開催してきたし、コロナ禍にはオンラインで学習会を続けてきたけれど、問い合わせはごくごくわずか。

子どもが成長すれば会から抜ける親が出てくるのは、昔からのことですが、そこに新しい親が入ってこないのですから、会員数は自然と減少していってしまいます。

会のメンバーの高齢化も進んでいきます。

この現象は『とーます!』に限らず、全国の親の会に共通して起きていることです。

 

これからの会の活動をどうしていくのが良いのか。

ここ何年も、折に触れては役員や会員同士で相談してきました。

 

それでも、地域に密着した「アレグレット」だけは一定の活動を続けることができていました。

地元の情報はその地域に住んでいる人しかわからないことで、いくらネットを検索しても思うようには見つからないものです。

子育ての先輩お母さんたちから経験談を聞けるのも、実際に集まって話す例会だからこそできることです。

コロナ禍になって制限されましたが、それ以前は、お泊まり会や食事会や調理実習などの親子活動や、お花見や暑気払いといった親同士の懇親会も、定期的に開催してきました。

 

数年前、伊達市の自立支援協議会子ども部会に親の会のグループも設立されたので、そこに加わって伊達市の福祉の現状を知ったり、こちらの希望要望を伊達市に伝えたりもしています。

令和5年に伊達市に特別支援学校が新設されたのですが、それは上記の親の会グループの前身が支援学校誘致の署名活動を行った成果でした。

署名を提出してすぐに学校ができたわけではないのですが、福島県で「新しく支援学校を3校増設する」と決まったとき、「以前から要望が出ていたし、たくさんの署名も集まっているから」と、伊達市が真っ先に候補地になり、一番最初に支援学校が開設されたと聞いています。

 

こういう地域の活動は、親の会としてまとまっているからこそできることです。

親の生活環境の変化や価値観の変化で、親の会という地域活動から遠ざかるのは、自然な流れなのかもしれないのですが、その結果、将来困ってしまわないだろうか、と私は心配しています。

親として行政や社会に「ああしてほしい」「こうするともっと良くなる」と感じることがあっても、それが1人2人の意見では、行政は動いてはくれません。

数でまとまる必要が必ず出てくるし、その時に賛同してくれる人を集めるのは、かなり大変なことになるでしょう。

普段から集まって話し合っていれば、「やっぱりみんなそのことで困ってるよね」「よし、それじゃ署名を集めて行政に陳情しよう」「私は自分の親や兄弟に署名を頼んでみる」「じゃあ、私はわかってくれそうな友だちに頼んでみるね」と、トントン拍子で進むのですが……。

 

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今は学校でも放課後デイサービスでも、かなりの支援を受けることができる子どもたちですが、今後社会に出る年齢になってくると、支援は減り始めます。

就労を考えようとすると、なおさら支援が減っていきます。

障害者の雇用が奨励されていますが、発達障害や知的障害がある子どもたちの就労は、就職先がなかなか見つからなかったり、就職しても続かなかったりして、かなり厳しいのが現状です。

その先の、親亡き後のことを考えると、もっと不安は増します。

今、地域や社会全体に対して動き出さなければ、子どもがその年齢になったときに間に合わないかもしれないのです。

 

また、我が子がひとりになったときに困らないように、親として家庭で教えていかなくてはいけないことや、育てていかなくてはいけないことも、たくさんあります。

お金の使い方、掃除、洗濯、料理、その他生活して生きていくために必要な様々なこと。

 

私は今、息子に週1回夕食当番をやってもらっています。

特別な料理ではなく、仕事で疲れて帰ってきても作って食べられるような、簡単で栄養のある料理です。

一昨日はご飯を炊いて、キャベツとサラダチキンで野菜炒めを作って、ネギと干し椎茸で味噌汁を作って、あとは温泉卵と海苔の佃煮や鮭フレークなどの「ご飯の友」を並べたメニューでした。

 

将来、親がいなくなっても、自分でご飯を作って食べて生きていけるように。

それもあまりお金をかけずに、でもちゃんと栄養が摂れるように。

これは学校などでは教えられないことだと思っています。

こんな体験も、親の会の例会で雑談のように情報交換しています。

 

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子どもへの親の愛情は昔も今も変わっていないと思います。

ただ、親と子を取り巻く状況が急激に変わってきました。

地域を越えた社会全体への呼びかけや働きかけも必要になってきています。

それは新生『とーます!』にお任せしたいと思います。

インターネットなどを駆使して、きっと様々な企画を進めてくれることでしょう。

 

私たち「アレグレット」は伊達市に拠点を置いて、相双を含む県北地方に地域密着しながら、親同士の交流や情報交換、少人数での学習会や親子活動、自治体との連携などを行っていこうと思います。

活動する場所が違うので、『とーます!』からは独立という形になりますが、目指すところは同じなので、今後一緒に活動をする機会もあるのでは、と思っています。

 

いずれにしても、4月から『とーます!』も「アレグレット」も新しいスタートです。

私はアレグレットの共同代表のひとりになります。

いえ、これまでもそういう位置づけにはいましたが、改めてそうなります。

 

どうか、半歩でも一歩でも前へ進む力になれますように。

我が子たちとこれからの子どもたちの幸せな未来のために、心からそう願っています。

 

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おわり

2024年3月11日 (月)

13年目の3月11日に

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今年も3月11日がやってきました。

あれから13年が過ぎて、東日本大震災の記憶がまったくなかったり、幼すぎて記憶がおぼろだったりする方が増えてきたようです。

でも、今年の元旦に能登半島を大地震が襲ったように、日本列島に住んでいる限り、いつなんどき巨大な地震に襲われるかわかりません。

だから、今一度あのときを思い出して、あらためて備えをしたい──してほしい──と思っています。

 

上の写真は地震の直後に長男が撮った私たちの部屋です。

耐震基準が新しくなる1981年以前に建てられた戸建て住宅に三世代で暮らしていて、私たち夫婦と子どもたちは主に2階の6畳二間で生活していました。

伊達市は震度6弱でしたが、地盤や2階だったことが関係したのか、揺れは本当に激しくて、部屋の入り口の扉は飛んで外れたし、洋服ダンスもパソコンも書類も本もなにもかも、倒れてひっくり返って、部屋は足の踏み場もなくなりました。

 

上の写真は、これでも長男がちょっとだけ片付けてくれた後です。

この後、人が過ごせるくらい部屋が片付くまでに、かなり長い時間がかかりました。

私の携帯は机の上に置き忘れていたので、タンスの向こう側で埋もれてしまって、この状況を撮影することができませんでした。

 

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「君は東日本大震災をどんなふうに覚えている?」と今朝、昇平に聞いてみました。

あの日の午前中、彼は中学校を卒業したのでした。

学校から帰って昼食を食べた後、彼はひとりで2階の部屋にいました。

 

「あの日は2階でパソコンを見ていたら急にものすごく揺れたんだ。

だから急いで(1階の茶の間に)逃げたけど、すごく怖かったし、その後もすごくつらかった。

でも、お母さんたちが頑張ってるのを見て、自分も頑張ろうと思ったんだ。

考えてみたら、あのときから私は人間が変わったのかもしれないな」

 

不登校寸前だった苦しい中学時代がやっと終わって、親子でホッとしていたところにやってきた未曾有の大震災。

「世界はなんて残酷なんだろう」と私も思ったのですが。

 

確かに、あのときから昇平は変わりました。

自分の人生を自分から諦めなくなった──そんな感じ。

今では、自分にできることを責任持ってやり遂げるようになって、就労支援事業所の研修先でもあてにされるようになっています。

確かに、あのときが昇平のターニングポイントだったのでしょう。

 

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上の写真は、震災から20日目に初めて外食をした「ビッグボーイ」の限定ランチメニューです。

これだけしかメニューがなかったし、サラダバーもドリンクバーもなし。

ソースはオニオンとデミグラスと照り焼きのみ。

ハンバーグを頼んだら、ついてきたのは冷凍のブロッコリーとコーンが少しという状態。

 

それでも、久しぶりの外食は本当においしく感じられたし、店内は家族連れでいっぱいでした。

隣接する書店も、天井はまだはがれ落ちているところがあったり、すごい状況だったけれど、やっぱりお客さんでいっぱい。

3週間経っても復興はまだ半ばだったけれど、それでも伊達市や福島市の人々は、楽しみや娯楽を求め始めていました。

建物を直したりインフラを復旧させたりすることも、もちろん大切なのですが。

「被災する前にやっていたことがまたできるようになる」ということも、心の復興のためにはとても重要なのだ、と実感した瞬間でした。

 

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「こう言ったらひんしゅく買うかもしれないけど……震災のときのご飯はおいしかったな」と昇平が付け足すように言いました。

あら、それは嬉しい!

 

能登地震の被災地ほどではないけれど、あのときは我が家でも停電が3日、断水が1週間、その後もガソリン不足や物資不足が続いて、食事の支度も思うようにはできませんでした。

でも、そんなときだからこそ、私は毎日のご飯においしいものを食べてほしくて、家にあった食材とわずかに入ってくる食料で、毎日「ああでもない、こうでもない」とメニューを考えて作っていました。

おいしいものは人を元気にすると信じていたので。

 

上の写真は我が家の非常持ち出し袋の非常食と買い置きしてある食料品のストックです。

毎年3月11日が近づいてきたら、賞味期限をチェックして、期限切れが近いものは食べて、新しいのを買い足すようにしています。

 

これ以外にも防災ボトルを作って、バッグに入れました。

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最初はあれもこれもと詰め込んだけど、重くて持ち歩くのが大変なので、これだけに絞り込みました。

ミニライト、ホイッスル、紙石けん、圧縮タオル、一口羊羹、飴、小銭、チャック袋が入れてあります。

 

どんなに備えても、災害に人間は勝つことができませんが、できる限りの備えをしておけば、被害を少しは減らせるかもしれません。

打ちのめされた心を早く立て直せるかもしれません。

そんなことを思うので、今年も私は3月11日を特別な日として過ごしています。

 

14時46分にはラジオに合わせて黙祷も捧げました──。

 

終わり

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