(カランコエの二番花。満開になりました。)
これまで何度も書いているとおり、我が家の次男坊の昇平には発達障害があります。
障害がわかった3歳の頃から、就労支援事業所に通っている現在までの20年間の道筋は、「発達障害てくてく日記」の本に載せたとおりなのですが、そこに書き切れなかった「彼が障害を負ってしまった理由」とそれに関連することを、今日は書いてみようと思います。
今までにも何度も書こうとしたけれど、うまく書けなくて、公開する前に削除してしまった内容です。
1995年8月、昇平は総合病院の産婦人科で産声を上げました。
とても元気な泣き声でしたが、その時点で彼はもう障害を負っていました。
陣痛微弱で入院したのにお産が始まらず、予定日を1週間過ぎてもまだ生まれないので一度家に戻され(そのとき私は郡山市内の実家にいました)、翌日病院へ診察に行った際に破水……したらしいのですが、高位破水だったので、ドクターも看護師も私も気がつかずにそのまま帰宅。
ところが、家で過ごしていてもなんだかおかしい。
水がちょろっと漏れるような感覚がするけれど、いわゆる破水のような大量の水は出ない。
病院に電話してみたけれど「大丈夫ですよ」の答え。
一晩様子を見て、やっぱり気になるから、と病院へ行ってみると、陣痛が始まっていたので、そのまま入院。
日付が変わる直前の深夜に、自然分娩したのでした。
産声は本当に元気で、産室いっぱいに声が響き渡りました。
でも、陣痛が本格的になってきたから助産師が羊膜を切って破水させようとしたら、もう羊膜がなくて焦ったとか、出産の際に排出された羊水が濁っていたとか、高位破水のせいで昇平は新生児肺炎を起こしたのだとか、お産が深刻な状況だったことを後から聞かされました。
出産した翌日、初めてお乳をあげました。
初乳はあまり量が出ないので粉ミルクで補うのがその病院のやり方でしたが、昇平はびっくりするような勢いでミルクを飲んで、あっという間に飲みきってしまいました。
同じ頃に生まれた他の赤ちゃんは、まだ飲むのがうまくなくて、とても時間がかかっているのに。
どうしてこんなにこの子は早いんだろう? と思っている間に、彼は新生児肺炎を起こして熱を出し、産婦人科から小児科の病棟に入院してしまいました。
そこでも彼は看護師さんが飲ませてくれるミルクを速くたくさん飲み、空気もいっぱい呑み込んで、せっかく飲んだミルクを大量に吐くようになりました。
それを繰り返すうちに、彼はミルクが大嫌いになってしまい、時間をかけないと飲めない(ということは、吐くことがあまりない)母乳しか受け付けなくなりました。
離乳食もあまり食べなくて、母乳ばかり飲んでいたので、10か月になる頃には母体の私が弱ってしまって何度も倒れる状況になりました。
これではどうしようもない、と強制的に断乳して、やっとまともに離乳食を食べ始めたのが1歳前のことでした。
どうしてミルクや離乳食の話をしているかというと、彼が生まれた翌日にはもう、障害がはっきり現れていたことをお知らせしたいからです。
その後の新生児肺炎などのせいで発達障害になったのではありません。
生まれたその時点で彼はもう障害を負っていて、まともにミルクを飲むことができなかったし、極端な偏食もすでに始まっていたのです。
時間が前後しますが、昇平は母親の私より1週間ほど遅れて、病院の小児科病棟を退院しました。
そのとき、主人と私で迎えに行ったのですが、産婦人科のドクターから、上に書いたようなお産のときの状況を聞かされ、「将来なにかしらの症状が出る可能性があります」と言われました。
そうなったときにも、病院から保障などは出ない話もされました。
高位破水による障害は、普通の破水と違って専門家でも気がつきにくいので、病院の責任とはされないということでした。(こんな風には言われませんでしたが、内容を要約するとそういうことでした)
でも、私も主人もその話を聞いて、「将来出るかもしれない症状」というのが「一生涯背負うことになる発達障害」のことだとは思わなかったのです。
まだ発達障害ということばが使われていなかった時代です。
私たちには知識がまったくありませんでした。
退院してからも、昇平は気管支がとても弱くて、しょっちゅう喘息のような症状を起こしていました。
気管支炎を起こしては呼吸困難になるので、私は苦しがる彼を一晩中抱いて柱にもたれて寝ていました。
「将来出るかもしれない症状」とは、そういう慢性気管支炎のような、身体に出てくる障害のことなのだと思っていたのです。
今ならわかります。
昇平は、高位破水のせいで外界とつながってしまった子宮の中で感染症を起こして、脳にダメージを受けてしまったのです。
遺伝的のような、そもそも生まれ持ってきた要因もあったかもしれません。
けれども、発達障害になった直接の原因は、高位破水に気がつかないまま24時間以上経過してしまったために起きた感染症だったのです。
ただし、世の中の発達障害を持つお子さん全部が、こんなふうに、出産時のトラブルで障害を負っているわけではありません。
こんなふうにはっきりしているケースはむしろ少なくて、普通に生まれ、普通に育ててきたのになんだか育てにくい、他の子と発達の様子が違う……ということで発達障害だと気がつかれるお子さんのほうが、圧倒的に多いです。
その後も昇平の子育ては悪戦苦闘でした。
6歳上の長男のときにはこんなに苦労しなかったのに、どうしてこの子はこんなに育てにくいのだろう? と思い続けましたが、それが障害なのだとは夢にも思いませんでした。
離乳食が進まない、夜泣きがひどい、多動で危険、指示が通じない、話し言葉もほとんど出ない、しつけができない、しょっちゅうパニックを起こす……。
そんな彼に診断がついたのが3歳の時。
その時点では多動・衝動性のほうが強かったので「ADHD」と言われましたが、自閉の特徴も強く、その後、成長するにしたがって多動性や衝動性は落ち着いていって、今は「自閉スペクトラム症」が主診断名になっています。
病院や保育園や学校、親の会といろいろなところと連携しながら奮闘した日々は、これまた「発達障害てくてく日記」の本の中に書いたとおりなのですが。
不思議なことに、私は病院でドクターからされた「将来出るかもしれない症状」の話を、これっぽっちも思い出さなかったのです。
診断が出てからも思い出しませんでした。
毎日毎日、とにかくできることを見つけて考えて、根気強く働きかけながら育てていく繰り返し。
ある日、本当に突然、はっと記憶がよみがえってきて、「もしかしたら、あの時のあれが原因だったのでは……!?」と気がついたのは、子育ての一番大変な時期を過ぎた後のことでした。
昇平はもう高校生になっていました。
もしかすると、私が記憶を封印していたのかもしれない、とも思います。
思い出してもいいはずなのに、あんなに綺麗に忘れていたのは、思い出してしまったら後悔のほうが先に立って、大事な「今日と明日のための子育て」の力が失われてしまう、と無意識のうちにわかっていたのかも。
実際、それを思い出してしまってからは、私はずっと後悔しています。
高位破水が起きるのはどうしようもないことです。
でも、家に帰ってから「なんか変だ」「なんかおかしい」と感じていたのだから、もっと早くそれを伝えていたら、もっと早く入院できて、破水にも気がついてもらえたかもしれません。
病院に電話をして「大丈夫ですよ」と言われて引き下がったけれど、あそこで「いえ、やっぱりおかしいです! 気になります!」と強く言い張ったら、病院側でもしかたなく受け入れてくれたかもしれません。
いや、そもそも陣痛微弱で1週間も前から入院したりしたから、病院側でも「またか」と思ったのだろうから、あんなに早くから入院しなければ良かったのかも……。
ずっと、繰り返し繰り返し、そんなことを思います。
どんなに「それは仕方がなかったこと」「私のせいでも病院のせいでもない」「あそこでがんばっても、きっと結果は変わらなかっただろう」と考えても、やっぱり後悔してしまうのです。
昇平自身は自分の障害を受け入れていて、私たちのことを恨んだりしてはいないのですが、それでも「あの時、ああしていれば、もしかしたら……」と折に触れて私は思います。
たぶん、この後悔は一生涯ついて回るのでしょう。
これが、子育ての一番大変だった時期に気がついていたら、どうなっていただろう、とも考えます。
先にも書いた通り、後悔が強くなりすぎて、悲嘆に暮れたり鬱になったりして、子育てをがんばる力が失われたような気がします。
ずっと昇平と一緒に前向きにがんばってきたけれど、こんなに前向きではいられなかっただろうと思います。
だからこそ、私は無意識のうちに記憶を封印していたのかも。
記憶がよみがえったのは、昇平がつらい時期を乗り越え、将来に希望を持ち始めたちょうどその頃でした。
「もうそろそろ思い出してもいいかもしれない」と私自身が封印を解いたのかもしれません。
無意識に。
上の写真は、先週の土曜日に昇平が一人で仙台へ遊びに行って買ってきてくれた商品です。
我が家は主人も私も昇平もポケモンが大好き。
仙台駅前のポケモンセンターで「こういうものを買ってきて」と昇平に頼んだら、「頼まれたものはなかったんだけど、代わりに近くていいものを見つけて買ってきたよ」と選んできてくれたのでした。
電車に乗って仙台まで行くこと、仙台駅前をひとりで行動すること、帰りの電車の時間を時刻表アプリで調べること、時間に間に合うように駅へ行くこと、自分の行きたい店(ゲーセンや本屋)を見つけて遊ぶこと、お昼を食べること……。
はじめは私や主人と行ってやり方を覚えたけれど、今ではすっかり慣れて、しっかり遊んで仙台を満喫して帰ってきました。
彼がまだ小さかった頃に、障害の原因を意識していたら、こんなふうに育てることができただろうか? と思います。
親の後悔を子どもは敏感に感じ取ります。
障害を自分自身のせいのように感じて、自分に自信を持てない人間に育ったかもしれません。
怖くて不安で、仙台に一人で行くことなんてできなかったかもしれません。
だとしたら、やっぱりあの時の記憶は、前に進む道がはっきり見えるまで封印しておいて正解だったのでしょう。
過去がどうであっても、子どもは、人間は、今と未来を生きるものです。
未来に生かせる過去の振り返りは大事だけれど、ただ後悔するだけの振り返りはほどほどにして、そこにとらわれずにまた前を向いていけたら、と思います。
今日の日記は意味がわかりにくい文章になったかもしれません。
ただ、これを推敲するうちに、また「やっぱり公開するのはやめよう」と思い始めたり、ボタンの押し間違いで消えてしまったり(ということも過去に何度もありました)すると大変なので、このまま公開することにします。
願わくば、昇平がこれからも自分の障害と二人三脚で前向きに生きていってくれますように。
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