2013年7月29日 (月)

2013年7月今の被災地・5~福島県南相馬市かしま福幸商店街~

南相馬市・かしま福幸商店街

 私たちは、右田浜から原町火力発電所まで南下してから原町へ出て、県道120号線を北へ引き返して、鹿島区に来ました。ここに仮設店舗の商店街があると聞いていたので、ぜひ行ってみたかったのです。

 が、迷いました。住所番地はわかっていたのですが、南相馬市は原町・小高町(おだかまち)・鹿島町の3つが2006年に合併してできた新しい市だったので、古いカーナビではなかなか見つけられなかったのです。私自身、どうもまだ「南相馬市」という地名にはなじみがなくて、さらに混乱を招き……
 なんとか仮設商店街にたどり着いたときには、「やっとついたー!」と歓声を上げてしまいました。
 下調べが不十分でごめんなさい、Kさん。


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 かしま福幸(ふっこう)商店街入口

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2013年7月27日 (土)

2013年7月今の被災地・4~福島県南相馬市右田浜~

南相馬市・護岸工事
 新地町釣師浜→相馬港尾浜→相馬市磯部地区と、福島県の浜通りを北端から南下してきました。
 昨年はここから相馬市内を通って飯舘村(いいたてむら)に向かったのですが、今年はもう少し南下して、南相馬市まで行ってみることにしました。

 海岸に沿って原町海老相馬線という道路を走っていくと、護岸工事をしている様子を見られる場所がありました。

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 津波で壊された防潮堤を直しているのです。

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2013年7月26日 (金)

2013年7月今の被災地・3~福島県相馬市磯部地区~

相馬市・磯部(いそべ)
 新地町の釣師浜から相馬港の南の尾浜を見学した後、福島県で最も津波の被害がひどかった場所のひとつの、相馬市磯部地区へ行きました。防潮堤以外、海からの波をさえぎるものが何もない場所だったので、磯部の集落ひとつがすっかり流されて、本当に何もなくなっていた場所です。

 去年の様子。
20120424soumaisobe04s


 今年の様子。
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 同じ地点の写真ではありません。土地のかさ上げ工事が行われているために、周囲の景色がすっかり変わって、どこがどこかわからなくなっていたからです。
 瓦礫の山はだいぶなくなっていましたが、まだ少し残っていました。パワーショベルがダンプカーがひっきりなしに動いています。
 磯部の漁港へ続く道路も、工事車両以外進入禁止になっていました。

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2013年7月25日 (木)

2013年7月今の被災地・2~福島県相馬港~

相馬市・尾浜(おばま)

 福島県は東側が太平洋に面していて、海岸沿いにいくつも浜や大小の港があります。
 最大の港は南部にあるいわき港ですが、北部で最大の港は、新地町の南隣にある相馬(そうま)港です。
 そこにもまた小さな浜がいくつかあるのですが、私たちは相馬港の南端の尾浜に行きました。震災の前までは海水浴場としてとても賑わっていた場所です。


 尾浜の今の景色。
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 去年の時点で、浜辺の瓦礫はほとんど片づけられていました。だから遠目には昔とまったく変わらないようにも見えます。
 三階建ての展望台は壊れず残りました。
 奥に見えているのは松川浦大橋(まつかわうらおおはし)です。波をかぶって壊れてしまったので、今も復旧工事が行われていました。工事用車両しか通ることができません。
 相馬港も復旧工事中。とにかく、どこもかしこもトラックや作業車でいっぱいでした。

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2013年7月24日 (水)

2013年7月今の被災地・1~福島県新地町~

 昨年4月に被災地見学に来てくださった、在米日本人で障害者支援団体役員のKさんが、今年も一時帰国に合わせて、被災地福島県の見学に来てくださいました。7月23日のことです。
 テレビや写真、動画などで津波やその後の惨状を目にした方は多かったと思いますが、その場所が「今」どんな状態にあるのか、他所に住んでいると、なかなか知る機会がないだろうと思います。私自身、中通りに住んでいるので、昨年以来浜通りには行っていませんでした。
 福島県の沿岸部はどんな様子なのか。広い浜通りのほんの一部ですが、私たちがマイカーで回って目にした光景を、写真を中心にお届けしたいと思います。


新地町・釣師浜(しんちまち つるしはま)

 福島県の最北端、一番宮城県寄りにある町で、津波の被害が非常に大きかった場所です。

 昨年はこんな光景でした。
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 同じ場所をほぼ同じ角度から写した今年の写真。
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 瓦礫はほとんどそのままですが、緑の草が地面と瓦礫をおおい隠そうとしていました。
 後ろでは土地の「かさ上げ」工事が行われていました。土砂を運ぶダンプカーがたくさん走り、ショベルカーやブルドーザーがひっきりなしに動き回っています。

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2013年3月11日 (月)

あれから2年

 2011年3月11日、午後2時46分。
 あの大震災から、あと少しで丸2年がたちます。

 今日の福島県は、一昨日から強風がまだ吹き荒れています。昨夜は雪も降りましたが、風が強すぎて横殴りの吹雪で、ほとんど積もらずに吹き飛ばされてしまいました。

 2年前のあの日も、寒い日でした。
 大きな余震が続く中、家の中に入るのも不安で庭に立っていたけれど、雪が降り出し風も吹き始めて、「どうしましょうか?」「公民館が避難所になっているって。行こうか?」「お義父さんと昇平が無理ですよね。車の中は」「そこも夜中には氷点下になるよ」「じゃあ、思い切って家に戻りましょう」……そんな会話を義母として、家に入ったのを思い出します。
 外れた戸を戻し、倒れた戸棚を起こし、まずは居場所を作り、家中から食料や飲料水や布団などを集め……。
 灯りも暖房もない部屋の中、男性たちは早々に寝てしまったけれど、私と義母だけはまんじりともせずに夜を過ごしました。「早く朝よ来い」と念じながら。夜中までつけていたラジオでも、「明朝の日の出は○時○分です」と何度も繰り返していました。同じような長い夜を眠れずに過ごしていた人は、大勢いたのでしょう。

 翌日からの私は活動的でした。
 めちゃくちゃになった部屋を一生懸命片づけながら、ラジオに耳を傾け、原発が爆発したことも、放射性物質が飛来していることも聞きながら、いつ何をどう行動するべきかをずっと考え続けていました。
 避難すればリスクは必ず弱者に向かいます。高齢者を2人、障害児を1人抱えている我が家の場合、行動は慎重に選択しなくてはなりません。
 測定された環境放射線量、新聞などで発表される情報、自治体からの発表や指示……。一生の間にこれほど真剣に新聞を読んだ時期があっただろうか、というほど、一生懸命新聞を読み、確かな情報を得ようとし、その上で行動を決めていきました。その結論が、「私たちは避難をしない」であり、「今の状況より悪化しない限り、このままずっとこの福島で生きていく」という決断でした。

 軸足が定まれば、あとはそれに基づいて行動あるのみ。
 昇平が入学することになっていた高校は無事だったので、学校のない日に彼の居場所になるはずだったフリースクールの移転・再開のために、仲間のお母さんたちと奔走し、精神的にダメージを受けた長男のために関東へ足を運び、同じく不安定だった昇平を支えました。家に修理の大工さんが出入りを繰り返し、落ち着かない生活が続く中、義父の認知症が音もなく進行し始めましたが、義母と相談しながら対応を考え……。

 そんな日々の中で、私は繰り返し思っていました。
 一番大切なものは、まだ私の手の中にある。だから、私は幸せ。だから、私はがんばっていける。

 あの激しい揺れの中、目の前で壊れていく家からは、昇平の悲鳴が聞こえてきていました。
 長男を迎えに行くために、車でひた走った道には、ブロック塀が倒れ屋根瓦が散乱していました。
 火の気のない台所で震えていた義父は、私の見つけてきた上着を着込み、カセットコンロの火に手をかざして、「ああ、あったかい、あったかい」と繰り返しました。

 私が失ったかもしれない人たちは、今も元気で私と一緒に生きています。
 家だって、あちこちまだ壊れたままだけれど、今もびくともせずに私たちを守っています。

 だから、私は幸せ。
 あの時も、今も、やっぱり幸せ。

 これはきっと、究極の幸せなんだろうと思います。
 私が生きていくために、絶対に必要な、欠かせないものなのでしょう。

 「もう終わりだ! 何もかも終わったんだ!」
 揺れが収まった家から出てきた昇平が叫んでいたけれど、私は繰り返し言いました。
 「終わりじゃないよ。これからまた始まるんだよ」
 そのことばの通り、あの日を再スタートにして、私たちはここまで生きてきました。本当の復興、本当の解決をみるまでには、まだまだ長い時間が必要なのでしょうが、それでも私たちは前に向かって進んでいます。

 願わくば 家族や家、友人、生き甲斐だった仕事、かけがえのない本当に大切な存在を失ってしまった方たちも、一日も早くまた元気になっていってくださいますように。
 あせらなくて良いから、ゆっくりと、また生きる元気を取り戻してくれますように――。

 3.11.14:46

 多くの魂が安らかに眠ってくれますように。
 多くの方たちが心の安らぎを得ることができますように。

 私は心から祈り続けます。


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2012年4月26日 (木)

被災地見学その4~福島県飯舘村・福島市花見山~

伊達郡桑折町そして飯舘村
 浜通りの被災地を見に行った前日の4月23日、私はKさんをフリースクールへご案内した後で、伊達市に隣接した伊達郡桑折町(こおりまち)にもお連れしていました。放射線の数値が高いために全町民が避難をしている浪江町(なみえまち)の仮設住宅があるからです。
 雨が降ったりやんだりのあいにくの天候でしたが、仮設住宅の敷地の周りではソメイヨシノが満開でした。

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 故郷に帰りたくても帰れない浪江の人たちが、美しい桜を見て少しでも心慰められるといいな――と思いました。

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 津波で壊滅的な被害を受けた相馬市磯部地区で、地元のおじさんの話を聞き、なぎ倒された松林の跡地を眺めてから、私たちは115号線を通って阿武隈山系に入りました。福島市へ向かう道ですが、Kさんの承諾を得て、ちょっと寄り道をしました。浪江町と同様、放射線量の数値が高いために全村民が避難している、飯舘村(いいたてむら)を見るためです。

 車で通過しただけだったので、飯舘村の写真はありません。ただ、どの家もどの事業所も扉を閉じ、窓にはカーテンを引いていました。人の姿はまったくありません。車も、途中で一台すれ違っただけでした。たった一軒、窓のカーテンが開いている家がある、と思ったら、玄関の前に自家用車が停まっていました。避難先から一時帰宅しているようです。
 人の気配のしない村は、ゴーストタウンのようでもあるけれど、家々はしっかりと建っていて、廃墟の町とも違いました。主人のいない庭先では桜や水仙が美しく咲き乱れています。聞こえてくるのは、高らかにさえずるヒバリの声。村は生きているのに、人がいない。とても不思議な光景です。
 ただ、田畑だけは荒れ始めていました。日本の耕地というのは、ずっと耕し続けなければ、すぐに荒れてしまいます。耕作しなければ、数年で原野に戻ってしまうとも聞きます。3.11の震災から1年あまり。その間、飯舘村の田や畑は放置されています。春が来て、去年の畑の痕からまた育ってきたのか、大きな緑の株が伸びていました。野生化した青菜か、あるいはキャベツか白菜か……。農家の人たちは、荒れていく農地にどんな気持ちでいることでしょう。

 その時、私とKさんは同時に声を上げました。
「サルだ!!」
 荒れた畑の中に、ニホンザルの群れがいたのです。その数、ざっと20頭。畑のあちこちに散って、のんびり餌を食べています。山にサルはいますが、こんな道路に近い畑にサルが群れで出てくることなどありませんでした。人間がいないことを知って、集団で現れたのに違いありません。
 村がサルの里になっている。なんとも複雑な想いでその光景を眺めました。


福島市花見山
 その後、ちょうど見頃を迎えた福島市の花見山にも回りました。
 今年は臨時駐車場から花見山までシャトルバスが出ています。花見山自体は花木の養生のために閉鎖中ですが、周辺の散策路から、花におおわれた山の姿を楽しむことができます。

 駐車場には県外ナンバーの車がたくさん並び、午後遅めの時間だったのに、花見山にはまだ観光客がいっぱいでした。
 

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 周囲の店の人たちは立ち寄る観光客に笑顔で精一杯のサービスをしていました。
 放射線の影響を心配して観光客が来ないのではないか……と、風評被害をとても心配しながら、この花の時期を迎えたのだろうと思います。休憩所の旦那さんなど、店をほったらかしで撮影スポットの説明などをしていました。土産物屋の若女将も「去年はお客さんがとても少なくて、とても淋しかったんですよ。来年もどうぞまた来てください」と言っていました。
 そんな人たちにできる応援は、買い物をして経済支援をすること、とKさんはいろいろ地元の土産物を買ってくださいました。私もお土産を買って、ついでに花見山に募金をしてボードにメッセージを残しました。「ことしもキレイでしたね、花見山!」と。


これから必要なもの
 東北や北関東の被災地が完全に復興を遂げるには、まだまだ時間がかかります。特にこの福島県では、本当に長い長い時間が必要になることでしょう。
 Kさんがフリースクールの見学をしたときに、最後に私たちに聞いてくださいました。
「これからどんな支援がしてほしいと思いますか? どんなものが必要ですか?」
 すると、スクールのS先生は言いました。
「物に関しては必要なものはだいたい揃った感じです……。一つだけぜひお願いしたいのは、被災地をこれからもずっと忘れないでいてほしい、ということなんです」
 私は「被災地の様子を自分の目でありのままに見てほしいです」と答えました。誰かの一方的な意見や見解ではなく、自分自身の目で現地を見て、自分自身の耳で現地の人の話を聞いて、その上で、被災地や被災者のことを考えていってほしいんです、と。
 それを思って計画した、今回の見学コースでした。
 Kさんのためと言いながら、私たち自身も、これまで知らなかった場所の様子や地元の人の話を確かめることができました。

 私たちが何をしていくべきか。私にできることは何なのか。
 そして、日本中、世界中の人たちと、どう手を取り合って復興していったら良いのか。
 そんなことを考えながら、「これからも細く長くおつきあいをよろしくお願いします」と言って、Kさんと福島駅前でお別れしました。


おまけ
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 津波で壊滅した相馬市磯部の海岸で咲いていたタンポポ


 どんなに災害は大きくても、春はこうしてまたやってきました。
 福島をはじめとする被災地にだって、「復興」という名の春は必ずめぐってくるはずです――。


(被災地見学・完)

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2012年4月25日 (水)

被災地見学その3~福島県相馬市磯部地区~

相馬市・磯部(いそべ)
 相馬港の南の尾浜から一度内陸に向かって相馬市内に入り、相馬市で一番被害がひどかったという磯部地区へ向かいました。
 相馬市内は無事な家がたくさんありました。営業している旅館や飲食店、改築してオープンした店なども並んでいます。津波で壊れたり泥をかぶったりした家は見られますが、少し高台になると津波に遭った痕もなくなります。ほんの少しの高さの差が、津波の被害を分けていました。「大きな地震の後には津波が来るから、少しでも高いところへ逃げろ!」というのは本当のことなんだ、と改めて実感しました。

 ところが、磯部地区に着くと――

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 本当に、何もありません。あるのは高く積み上げられた瓦礫と、その中を伸びる道路だけ。そこを工事用車両が走っています。

 ここも立ち入り禁止かと思ったのですが、海のすぐ近くまで行くことができました。小さな港になっていた場所です。

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 海に面した場所に、白いものが集められていました。

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 漁船でした――。

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 この場所に先客がいました。バイクに乗ってきた初老の男性です。くわえ煙草で海と船を眺めていましたが、私とKさんが遠慮しながら近づいて「こんにちは」と挨拶をすると、「あんたたち、どっから来たの?」と聞いてくれました。そこで私がKさんを示して、「こちらの方はアメリカからなんです」と答えると、おじさんはさすがにびっくり。でも、「福島のためにアメリカで募金活動をしてくださって、被災地の様子を自分の目で見たいというのでお連れしたんです」と説明すると、納得したのか、おもむろにこの場所のことを話して聞かせてくれました。

 「ここにはたくさんの船が並んでいたんだ。60隻あったんだ。あそこから出て、こう進んでいって、外海に出たんだ。その船はみんな(津波に)打ち上げられて、あそこに集められてる。60隻全部だ……」

 おじさんはとつとつと話し続けます。
 船が置いてある場所の前には漁協の磯部支所があったこと、自分の家は国道6号バイパスから1キロほど内陸だったので津波から無事だったこと、6号バイパスが堤防のようになったので津波がそこで停まったこと、でも親戚の家は流されてしまったこと、みんなラーメン屋の2階に避難したのだということ、こちらには磯部の集落がずっと広がっていたのに今はもう何もないこと、あるのは瓦礫の山だけだということ。

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 何もなくなった場所に、うず高い瓦礫の山が見えています。横で動いているのは大型のショベルカーです――。

 木材の瓦礫の山は津波になぎ倒された防風林なのだ、と教えてくれたのも、このおじさんでした。
 とたんに思い出しました。この場所は、松川浦と外海を隔てる形で伸びた大洲と呼ばれた場所で、海岸線にそって何キロも松の防風林があったのです。私はその中を何度もドライブしたことがあったのに、景色があまりに変わりすぎていて思い出せなくなっていました。

 「何もなくなっちまった。本当に何もなくなっちまったんだ」
 とおじさんはくわえ煙草で言い続け、少し間を置いてから、こうも言いました。
「でもなぁ、津波は天災だからどうしようもないんだよな。ただなぁ、この放射能だけは本当に困ったもんだ」
 怒るでも恨むでもない、おじさんの声。ただとにかく本当に困っているんだ、という口調。
 福島県の漁業関係者は、原発事故以来、ずっと操業を自粛しています。
 船や港が使えなくなったからだけではなく、たとえ船を出すことができても、漁をすることができないのです。
 一部の水産物から基準値を上回る放射線量が検出されているから。そして、「福島の魚だ」というだけで、消費者は怖がって買ってくれないだろうから……。
 津波が何もかもをさらっていっただけでなく、漁を再開する見通しさえ立たないのが現状です。

 ふいに、このおじさんは漁師で、打ち上げられた自分の船を見ていたんじゃないか、と思いつきました。海に出たくても出られない。待てばいつか海に出ることができるのか、それさえもわからない。そんな状況の中で、このおじさんも、毎日のようにこうしてバイクで海と船を見に来ていたのかもしれない……。そんな気がしたのです。

 「この場所のことを、よく見ていってください」とおじさんが言いました。
 Kさんは「はい、しっかり見させていただきます」と答えました。「おじさんも、どうぞお元気で」とも。
 おじさんは最後まで煙草をくわえたまま、バイクに乗って去っていきました――。


相馬市・大洲海岸(おおすかいがん)
 その後、防風林が広がっていた大洲海岸まで行きました。
 あれほどうっそうと生えていた松林が、ほとんどなくなっていました。

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 松林の中には気持ちの良い公園があって、そこで大勢の家族連れがキャンプやバーベキューをしたり、目の前の海へ泳ぎに行ったりしていました。海浜自然の家は残っていましたが、先に見た建築事務所のように、中がすっかりなくなって、コンクリートの外側だけになっていました。
 わずかに残った松の木は、海水をかぶって立ち枯れていました――。

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 枯れた松を見上げる旦那


 集落一つが完全になくなってしまった相馬市磯部地区。外海から津波がやってきたら、さえぎるものは何もない場所です。
 どうしたらここを再興できるのか。いつ、どんなふうにしたら、元に戻っていけるのか。
 ただでさえ大変な復興の足を、原発事故が、今も引っぱっています――。

(以下、その4へ続く)

  


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被災地見学その2~福島県相馬港~

相馬市・尾浜(おばま)
 福島県北端の新地町を離れ、海岸沿いに南下していって、相馬市へ向かいました。
 沿岸の大半の家は撤去されていますが、まだ建っている家も少しあります。でも、人が住める状態ではありません。

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 1階部分が大破した家。まだ新しそうなのに……


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 「建設」という文字だけ入口の上に残った建物


 目的地は相馬港だったのですが、関係者以外立ち入り禁止でした。そこで、そのすぐ南側の尾浜へ行きました。ここも子どもたちを何度も連れてきた海水浴場です。ここは比較的設備がしっかり残っていて、海の見える場所に新しくベンチが据えられていました。天気の良い日で、お年寄りが二、三人、ベンチに座っていました。

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 海に面したベンチに、よいしょ、と座るおばあさん。白い建物は公衆トイレ。その向こうが相馬港


 どう見ても地元の方です。なんとなく、毎日そうやって海を見に来ているのではないかな、と思いました。何を想いながら海を見るのだろう、とも考えました。目を足元に向けると、浜へ下りる階段の上に、花束と線香がありました。花はすっかり枯れていました。春の彼岸の頃に手向けられたものかもしれません。
 海はそこに住む人たちから大切なものを奪い取っていきましたが、それでも、住人は海を眺めるのですね――。

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 枯れた花束と線香


 海に背を向けて内陸へ目を転じると、ここにも土台痕だけになった住宅地が広がっていて、何人もの作業員が瓦礫を撤去していました。

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 瓦礫の撤去作業中


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 工事中だった松川浦大橋。手前には漁船。


 南の方へ通じる松川浦大橋は津波で破壊されましたが、復旧工事の最中でした。
 内陸奥深くまで津波が押し寄せた場所ですが、相馬港は浜通り北部の重点港なので、大急ぎで直しているようでした。

(以下、その3に続く)
 

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被災地見学その1~福島県新地町~

 私は福島県伊達市に在住しています。昨年3月11日には被災しましたが、避難所に行くこともなく困難な日々を乗りきり、家の修理もひとまず終わって、1年が過ぎた今ではほぼ落ち着いた生活を送れるようになりました。

 そこへ、二男のフリースクール再開の際にアメリカで募金活動を行ってくれた、在米日本人サポートグループの代表のK.W.さん(国際結婚をなさった日本人女性です)が、一時帰国がてらフリースクールの見学にいらっしゃることになり、被災地の様子も見て回りたいとおっしゃるので、伊達市内や浜通りと呼ばれる福島県沿岸部などをご案内することにしました。
 怪我がようやく治った旦那に運転手を頼み、4月24日に新地町と相馬市へ。これは、その時に撮った写真の数々です。


新地町・釣師浜(つるしはま)
 ここは福島県の一番北の端にある町です。震源地の宮城県に近いので、津波で大きな被害を受けました。
 新地町に入ると、道路脇の地面が泥でおおわれています。津波で一面瓦礫におおわれた場所ですが、1年が過ぎ、打ち上げられた船や壊れた家などはほとんど撤去されていました。

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 家はすっかりなくなって、残ったのはコンクリートの基礎部分だけ


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 散乱するコンクリート片と傾いて残った電柱


 この新地の釣師浜には海水浴場があって、小さかった長男をつれて何度か遊びに来たことがありました。
 ところが、浜へ続く道路が途切れていて海辺に行けません。水のないところを通り、壊れた堤防を乗り越えてみました。振り向くと、以前はたくさんの家が建ち並んでいた場所が、変わり果てた景色になって広がっています。堤防の内側は、残った海水が溜まっていて水路のようでした。

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 途切れた道路の端に立つKさんと旦那
 

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 津波で壊れた堤防と水路のように溜まった海水。左手には住宅地が広がっていた。(2枚の写真を結合)


 コンクリートの堤防が壊れている……!! 自分の目が信じられませんでした。こんなに分厚いのに。こんなに頑丈そうなのに。あの日、多くの海辺の人たちが、同じ想いで壊れていく堤防を見ていたのだと思います。


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 浜へ下りる階段のポールが曲がっていた


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 金属製のポールがぐにゃり


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 東屋。固定式のテーブルがフェンスの横に転がっている


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 目を転じれば、あの頃と同じ海


 あそこで長男を遊ばせたっけ。小さな姉妹が二人、はしゃぎながら海へ駆けていくのを見たなぁ……。そんなことを思い出しながら、海を眺めました。本当に、今はこんなに穏やかに見える海なのに。


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 浜辺に一つだけ残った建物


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 近寄ってみると、窓も戸もすっかりなくなっている。2階の窓枠も曲がっている。


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 中をのぞくと設備が残っている


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 右側の窓からのぞくと、テーブルがひとつ


 部屋にぽつんと立てかけられたテーブルには、「昭和54年4月吉日 寄賜 第走号(?) 大戸浜 寺島シノブ」という文字が読めました。
 帰宅してから調べてみたところ、この建物は相馬双葉漁業組合の新地支所だそうです。さし網や底引き網の漁の他に、養殖や漁場の開発などにも力を入れてがんばっていたとのこと。残されていた設備も、そのためのものだったのかもしれません。関係者はどれほど悔しいことだろう……と思いました。


 さて、釣師浜を離れて南へ走り出すと、道路脇に現れたのは――

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 瓦礫の山


 テレビで観る気仙沼や石巻ほどではないかもしれませんが、ここでも瓦礫が山積みになっていました。


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 枯れ木の瓦礫の山


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 プラスチック系の瓦礫の山


 瓦礫は木材、プラスチック、その他(可燃物が含まれた泥の山)に、綺麗に分類されていました。枯れ木は、津波になぎ倒された防風林なのだそうです。処分するにもきちんと分類しなくてはならないのですね。
 ただ、被災地の瓦礫処理は全国の自治体からなかなか受け入れてもらえません。放射線量が全然心配ないレベルの宮城県や岩手県でさえ拒否されてしまうなら、福島県内の瓦礫なんてどこからも引き受けてもらえないのでしょう。
 これから、これはどう処理されていくんだろう、と思いながら、瓦礫の山からも離れました――。

(以下、その2に続く)

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