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2013年10月21日 (月)

戊辰戦争の進軍ルートをたどる・城下編1(興徳寺~甲賀町口門跡)

 NHK大河ドラマ「八重の桜」で前半のクライマックスになった、1868年の戊辰戦争で、新政府軍が会津に侵攻したルートを可能な限り車でたどってみようとしたのは、今年の6月のことでした。
 そのときの記事はこちらから。→http://ley.cocolog-nifty.com/hitorigoto/2013/06/post-3ce1.html

 

Shingunzumwithmarker_2 6月22日のドライブルート

 

 奥羽街道(現在の国道4号線)を本宮市から会津街道に入り、激戦地になった母成峠を経て猪苗代に抜け、十六橋、戸ノ口原を経て、会津の城下町、つまり会津若松市へ入って鶴ヶ城まで行ったのですが、その時点でドラマではまだ会津突入まで進んでいなかったので、下調べが不十分で、会津への侵入口を間違えました。東の天寧寺(てんねいじ)門があった方角から城へ向かってしまったのですが、実際には城の正門に続く甲賀町口門が激戦地になったのです。
 甲賀町口門の跡も残っているとわかって残念無念。時間が押していて鶴ヶ城そのものも見ることができなかったので、昨日10月20日の日曜日、用事で会津若松へ行ったのを機に、ちょっと足を伸ばして、城下に入ってからの新政府軍のルートをたどってみました。

 今回利用したのは高速バス。福島駅前から乗って会津若松市内の神明通り(しんめいどおり)停留所で降りました。ちなみに、郡山駅やいわき駅前からも会津行きの高速バスが出ています。お城にすぐに行きたい方は、合同庁舎前で降りると近くて便利です。

 

 神明通り停留所から道路を渡ってちょっと戻ったところに、興徳寺入り口があります。ここには会津若松の生みの親と言われる蒲生氏郷(がもううじさと)公のお墓があるので、まずここをお参りすることにしました。

 

 

20131020aizu01

 

 かなりの雨降りです。う~ん、しょうがない。
 カメラをぬらさないように注意しながら境内へ。

 

 

20131020aizu02

 

 蒲生氏郷公の墓。でも、彼は豊臣秀吉の伏見城落成祝いへ行って病没したので、墓の中には遺髪だけが納められているそうです。戊辰戦争の際、この寺は完全に焼け落ち、その後再建されました。

 

 

20131020aizu03

 

 境内の建物の脇に、何故か横を向くように建てられていた、会津藩主・松平容保公の自作自筆による石碑。「百とせをみたびかさねし若松のさとは幾千代(いくちよ)栄えゆくらん」と書かれています。でも、なんでこんな隅っこに横向きに? 戊辰戦争の悲劇を招いた責任者ってことだからでしょうかねぇ。なんとなく釈然としないような。

 

 

 県外からの観光客は神明通りに戻って、通りに沿って別ルートからお城の方をめざしますが、私は以前若松に住んでいて土地勘があるので(でも、当時は歴史に興味がなかったので、知らない史跡が随所に。苦笑)、寺のすぐ北の裏道を抜けて中央公民館の横に出て、さらにその向かい側の細い道へ。え、こんなところ通って大丈夫? なんて思うような道に、飲食店が建ち並んでいます。わっぱ飯の田季野という有名なお店もあって、会津の郷土料理が楽しめます。……閑話休題。

 

 

 裏道をたどっていくと、ありました! 甲賀町口門跡です!

 

20131020aizu05_2 クリックすると拡大します。

 

 門を裏側から見ています。外堀で郭内(武士の居住地)と郭外(町人の居住地)にわけたというので、当時、この門は外堀の土手に続いていたのでしょう。とすると、今通ってきた裏道は外堀を埋め立てた上に作られたのかな?
 
 それでは、新政府軍にならって、ここからお城へ向かうことにします。

 

(その2へ続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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コメント

10年位前に、父が入院したので出張終わりに数日帰省したことがあり…
その時に「興徳寺」にフラフラと立ち寄ったけれど、そんな親切な立札?はなかったような^^;

大河ドラマのおかげで、いろいろと史蹟に関する案内が増えてありがたいですね^^

甲賀町口門跡からお城の正面まで…まさに、今日歩きました。
こうして歩き回ると、知らず知らずに「歴史の跡」が多く残っている土地なんだなぁと再認識ですよねー。

投稿: ぺちゃん | 2013年10月22日 (火) 00:51

>ぺちゃんさん

時間差で同じ会津若松市内を歩き回っていたみたいですね~。
月曜日は雨は降らなかったかな?
晴れているときに、もう一度同じルートをたどってみたいと思いました。
雨は足場が悪くて。(><)

興徳寺の入り口は、神明通りの細い路地だけれど、一応看板はあがってました。
でも、会津開祖藩主の菩提寺にしては、本当に小さいし目立たないですよね。
会津の城下町が戊辰戦争で消失したり、藩士が斗南に強制移住させられたり、会津が賊軍にされたりしたせいだろう……という見方があるようです。
容保公の歌碑の扱いに、確かにそうなのかも、と思いました。

会津って、本当に身近にすごい史跡がごろごろしてますよね。
それを当然のように日常生活で眺めているのが、会津若松市民のような気がします。

投稿: 朝倉玲 | 2013年10月22日 (火) 10:42

素敵な歴史探訪ですね。

会津若松、、、いつか行ってみたい! とますます強く思いました。


投稿: りしょう | 2013年10月23日 (水) 09:35

>理尚先生

会津は戊辰戦争で焦土と化しましたが、
それでもあちこちに、いろんな史跡があります。
春と秋は特に美しいので、ぜひその季節にどうぞ。
桜の頃の鶴ヶ城は、花の期間が短いこともあって、そうとう込みますが、
紅葉の季節は人の入り方がもう少し穏やかだし
石垣のツタが赤くなっている様子など、本当に風情がありますよ。

投稿: 朝倉玲 | 2013年10月23日 (水) 12:36

興徳寺が秋月サンの菩提寺とゆー事ですが…
この立札の秋月サンは悌次郎サンじゃないですよ~。

秋月悌次郎サンは、もともと丸山家の二男?で、分家して「秋月」姓を名乗ったので、違う方だと思いまする。
図書館で借りた本だったので、手元には無いのですが…
ウィキ情報だと、お墓は青山だそーです。

気になったのでさらにこの「秋月登之助」を検索したら
本名は江上という方で、江上家の菩提寺が興徳寺なのでしょうね。
幕末・維新の頃って、名前を変えている人が多かったですよね。
何故秋月姓なのか、悌次郎サンと関係があるかは、手持ちの本と記憶ではわからないので、まだ読んでいない悌次郎サン絡みの本が図書館にあれば読んで確認したいと思います。<いつの頃になるやら…

…それにしてもこの立札、紛らわしいなぁ。

投稿: ぺちゃん | 2013年10月29日 (火) 22:22

>ぺちゃんさん

うぉう!!?
秋月という名字から、てっきり「八重の桜」に登場した秋月さんと思い込んでしまいました。
名前を覚えていなかったものだから。(><)
すみません。ご指摘ありがとう~。お墓の部分は削除しました。
次に史跡巡りを記事にするときには、下調べと事後確認をしっかりやらなくては。

投稿: 朝倉玲 | 2013年10月31日 (木) 20:01

いや、私もこの画像を見て
「秋月サンの菩提寺だったのか~」と思ってたしw
幕末って、身分を隠すことも含めて、名前をコロコロと変える人が多かったから、尚更わかりにくい。
(幕末・維新に興味を持てなかった理由のひとつが名前が変わる事だったりして…)

史跡巡り、楽しむのが一番かと♪


もちょっと別な方法でお知らせすればよかったと、後から反省^^;

投稿: ぺちゃん | 2013年10月31日 (木) 20:31

>ぺちゃんさん

いやいや、全然気にするコトないですよ~。
教えてもらえて、本当に助かったし、すでにこのページを見た方が、また見に来たときに、「あれ、写真や記述がない?」と思ったときに、コメント欄を見てもらえばいきさつがわかるから。

本当に、昔の人ってどうしてこう、名前をころころ変えるんだろうねぇ~。
あ、いや、今回のは私が秋月さんの名前をよく覚えてなかったのがミスだったんだけど。(笑)
でも、名前を覚えにくいのは確かですよね。
「一生の間に名前は一つだけにしなさい。名前を変えちゃいけません」と法律で決めてくれた明治政府には感謝です~。(爆)

投稿: 朝倉玲 | 2013年10月31日 (木) 20:54

今更ながら、この秋月サンですが…

最近、お家騒動の本を借りようかなーと検索してたら『興徳寺に墓所が…』という文字に反応して、ひたすらリンク辿ってみました。
(ネットって便利~とシミジミ)
どうやら、元々は鍋島藩の家臣の家系らしいです。
鍋島騒動の後に、本家?として認められなかった主人と共に、会津藩預かり(保科正之の代)になって、子孫はそのまま会津藩にいたそうです。

この興徳寺に、龍造寺本家として認められなかった方の墓所もあるとか…。
思わぬところで、思わぬ人に繋がるものですね~>歴史って

さて、借りた「御家騒動」にこの鍋島騒動が載っているかどうか(^-^;

投稿: ぺちゃん | 2013年12月14日 (土) 22:31

>ぺちゃんさん

うおっ!
出かけていた間にコメントもらっていたのね。
気がつくのが遅れてごめんなさい~~。

関係が複雑でよくわかんないのですが、この秋月さんと、八重の桜に出てきた秋月悌次郎さんは、血縁関係も親戚関係も、何もなかった、ということでいいのかな?

ただ、八重の桜以前には、秋月悌次郎さんって人は、ほとんど知られていない人物だったんでしょうね。
それに反して、興徳寺にお墓のある秋月さんは、戊辰戦争で土方さんを助けた人物だったみたいだから、その絡みで有名になっていたんでしょうね。

八重の桜は無名だった会津の偉人に大勢スポットを当てたから、今後、注目される人や再発見される人が増えていくかもしれないですね~。

投稿: 朝倉玲 | 2013年12月16日 (月) 21:15

いやぁ~ホント、なんでここに?みたいな感じで、
関係が複雑すぎますwwww

秋月悌次郎サンと全く無縁な秋月サンです、ハイ。

前にもアチラで本の感想としてちょっと書いたんですが…
秋月悌次郎・山本覚馬は、会津の人々から忘れられていたどころか、憎まれたりしていたと言う説もありました。

まぁ…忘れられていたってのは、納得なんですけどね。
特に覚馬あんつぁまは、戊辰の戦の後は会津に帰らず、京都復興に尽力したから忘れられていたと思うし。
悌次郎サンは降伏の使者をしたから恨まれていたともありました。

そうそう。
梶原平馬サンの本の中で、秋月悌次郎はあまり会津の人から人望がなかったとあったけど…理由がさっぱり書いてなかったです^^;
悌次郎サンが京都から左遷され、さらに蝦夷地へ左遷されたのは、徳川慶喜の謀ともあり、これはちょっと…と思いましたけどねぇ。


探せば探すほど、読めば読むほど、歴史って不思議感が増してきます。

投稿: ぺちゃん | 2013年12月16日 (月) 22:53

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