戊辰戦争の進軍ルートをたどる・城下編2(甲賀町口門跡~鶴ヶ城)
現存している甲賀町口門は、一対になっている門の片側(西側)だけです。それを右手に眺めながら、南へ、鶴ヶ城のある方向へ歩き出します。
この時点でお城はまだ見えません。道が緩やかに左カーブを描いているのがわかるでしょうか?
そのカーブを曲がったとたん、真っ正面にお城が現れます!
これは防衛のためだったのではないかな、と思いました。若松の町中には、城下町特有の「辻走り(つじばしり)」の交差点があちこちに残されていて、敵が攻めてきてもスムーズに城には行けないようにしてあります。この甲賀町口門から城の大手門に続く道(大手筋)がまっすぐになっていないのも、やっぱり門を突破した敵がまっすぐ突進してこられないようにするためだったのでしょう。
それに、もし、門の真っ正面に城が見えていたら? 政府軍は優秀な大砲をたくさん持っていたのですから、門を破ったり、城のそばまで攻め寄ったりしないで、門の外からアームストロング砲をどかんどかん撃ち込んだでしょう。道を曲げておくのは、理にかなった防衛法だったのですね。
城へ至る道の両脇にも史跡がいくつもあります。
鶴城小学校(かくじょうしょうがっこう)は、大通りの東側にあって、今は改築に当たっての発掘調査中でした。その場所は江戸時代には大きな家臣の屋敷があったとか。建物跡や食器などが見つかっている、と立て札(?)に書かれていました。
さらに行くと、これは宮泉酒蔵の会津酒蔵歴史館。
中を一般公開していて、酒造りの過程が見学できたり酒が買えたりするので、観光客には人気のスポットです。この日も、雨だというのに観光客が大勢訪れていました。
でも、ここは昭和29年に老舗の花春酒蔵から分家した新しい酒蔵で、戊辰戦争当時にはなかったし、新政府軍の兵も酒蔵に寄ったりはしないはずなので、私はそのまま直進します。(笑)
町中のあちこちに、こんな歴史案内板が立っています。これは酒蔵歴史館のすぐそばに立っていたもの。「戊辰戦争終結の地」ということで、泣血氈(きゅうけつせん)のことが書かれています。もちろん、実際の降伏調印は城内で行われたので、宮泉の横などではありませんでしたけれどね。と無粋なことを言ってみたりして。(笑) 【訂正】 友人の情報によると、降伏の調印式は、本当に城外のこのあたりで行われたのだそうです。てっきり城内だったとばかり。重ねて不勉強でした。すみませんでした。(汗)
城に近づくにつれて重要な役職に就いていた家臣の屋敷跡になります。これは城のすぐ前にある家老の屋敷跡。白露庭(はくろてい)という庭園の跡が公園になっています。雨でなければ散策したのですが、相変わらず雨は本降りなので横目で眺めるだけにとどめました。
内藤邸跡の道路を挟んで反対側にあるのが、これ。
大河ドラマ「八重の桜」では西田敏行が演じた西郷頼母(さいごうたのも)の屋敷跡です。城下は戊辰戦争ですっかり消失したので、今は何も残っていませんが、ここで頼母の奥さんや娘たち西郷一族の女性たちが、政府軍に抵抗するために自刃していったわけです。
この屋敷はお城の本当に目と鼻の先。この屋敷を作戦本部に使おうと乗り込んだ新政府軍が、自刃して果てている女性たちに愕然とする場面が、「八重の桜」の中にもありました。
ちなみに、西郷邸は、東山温泉に至る東山街道の途中に武家屋敷として再現されています。
いよいよお城に着きました。
でも、すんなり天守閣には近寄れません。高い石垣があって、その手前には大きな内堀があります。内堀を渡るには、左へ進まなくてはなりません。
このとき、堀の向こうの右側に見えているのが北出丸(きたでまる)。敵から城を守るための防衛拠点で、当時は石垣の上に櫓(ろ)や番所が作られていたようです。
八重たちが銃や大砲で一斉攻撃して敵を防いだのはこの場所。「よぉく狙って撃ちなんしょ」と、八重はこの北出丸の石垣の上で、白虎隊の少年たちに言ったわけです。
城へ入るルートは、写真左側の、北出丸の横手に当たる場所だけ。そこにたどり着くまで、敵は北出丸から集中砲火を浴び続けます。
さらにその先にあるのはこの枡形(ますがた)になった大手門。
周囲を石垣で囲まれた四角い場所の先を、さらに右に曲がったところに入り口があったので、ここに入り込んだ敵は周囲からまた集中砲火を浴びて、ついに城内に入り込むことはできませんでした。
そして、その鉄砲隊の中には、もちろん八重が一緒にいました。
北出丸を内側から見ると、こんな感じ。この階段を八重はスペンサー銃を手に駆け上がっていきました。
……ドラマでは、もっと段数が少なくなっていましたよね。(笑)
会津鶴ヶ城は敵の大砲でぼろぼろにされましたが、それでも最後まで敵の侵入を許さなかったのは、非常に防御力の高い造りをした城だったからなんですね。
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