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2013年6月24日 (月)

戊辰戦争の進軍ルートを車でたどる・3(戸ノ口原~強清水)

Tonokuchimap_3 (クリックすると拡大します)

 

 これは戸ノ口原(とのくちはら)古戦場跡入口に立っていた案内板の地図です。赤い線は白虎隊の足跡ルートと書かれていますが、政府軍の進軍ルートともだいたい一致します。

 

 右上に、先ほど見てきた十六橋がありますが、十六橋は車での通行が禁止なので、一度越後街道(国道49号線)へ戻ります。ちなみに、先ほどのヘアピンカーブを引き返さなくても、十六橋の手前の小さな交差点から細い道路を右(南)へ向かうと、そのまま越後街道に出られます。
 会津レクリエーション公園を左手に眺めながら西へ走り、十六橋からくる道の延長に当たる道へ左折して、昔の越後街道に入ります。

 

 入ります……が、うわぉぅ、未舗装の砂利道だ~!

 

Tonokutihara1_2

 

 道幅は昔の越後街道そのままだろうと思います。本当に、昔のままの土の道ですが、当時は砂利は敷いてありませんでした。
 車の助手席から撮っているので、フロントガラスにETCが写り込んでいます。すみません。

 

 木と藪になった草むらの間を延びていく道沿いに、上の地図の書かれた案内板が立っていました。

 

 Tonokutiharaannnaizu

 

 国道49号線から一本南側の旧道。49号線はたくさんの車が往来しますが、こちら側は通る車もなく、深い緑の中に鳥の声が響いています。ここを西へ進んでいくと、間もなく戸ノ口原古戦場跡に到着。細い道の交差点の一画に、案内板があり、木々に囲まれて「白虎隊奮戦の地」という碑や供養塔が建っていました。

 

Tonokutihara2 (クリックすると拡大します)

 

 

Tonokutihara3

 

 

Tonokutihara4

 

 供養塔は、戊辰戦争で亡くなった「両軍の」戦没者を慰霊するために建てられたものです。「戊辰戦役 滝沢峠 戸ノ口原 両軍殉難者 九十八士供養塔」と書かれていて、当時の会津若松市長の名前もあります。土佐藩ゆかりの人々から供養塔の話が出て、会津若松市民もこれに賛同して供養塔が建てられた、というようなことが説明に書かれていました。

 

 この一帯は大野ヶ原と呼ばれていて、攻撃を防ぐのには広すぎて守りにくい場所です。
 先の十六橋からは、歩いて三十分とかからない場所ですが、ここが両軍の激戦地になりました。政府軍が性能の良い銃や鉄砲を持ち、どんどん援軍も受けられたのに、会津軍は数が少ない上に、白虎隊がヤーゲル銃を持っているだけで(それでも敵の銃よりは性能が落ちる)、他の藩士たちは火縄銃や槍を装備していたというのですから、とてもかなうはずはありません。死傷者も次々出てきて、会津軍はついに撤退を余儀なくされ、滝沢峠を会津方面へ敗走することになります。その中には、15~18才の少年たちで結成されていた白虎隊二番隊員たちも含まれていました。彼らが出陣して戸ノ口原で待機するまでの様子は、昨日の「八重の桜」にあったとおりのようです。(実際に押しくらまんじゅうをしたかどうかは、よくわかりませんが)

 

 

Tonokutihara5

 

 戸ノ口原の古戦場跡を出て、さらに旧道を西へたどります。こんな景色がずっと続きます。もちろん、道路は未舗装。

 

 と、その途中にこんな案内板が現れました。「会津藩二十二士の墓」

 

Takizawa2 (クリックすると拡大します)

 

 ここから先、滝沢峠を越えて会津若松市内に至る間に「○人墓」という墓がいくつもあります。戦死した会津藩士を埋葬しないよう政府軍が通達したために、戦いが終わっても遺体が戦場跡の山林に放置されていたのですが、藩士の遺体が朽ち果てていくのを見かねた近隣の住人(農民たちですね)が、遺体を集めてひとつの墓に収めたために、こういう名前で呼ばれているそうです。
 ここにあるのは22人の戦死者を埋葬した墓、ということになるのですが、生い茂る夏草におおわれていて、お墓がどこにあるのか、私たちには見つけられませんでした。

 

 ここも通り過ぎて、さらに西へ行くと、やがて舗装道路が現れて、三軒の蕎麦屋が店を並べている集落に出ました。ここが強清水(こわしみず)です。

 

Kowashimizu4

 

 越後街道と白河街道の分岐点に当たる地点で、昔から茶屋があったところ。ちょうど12時も過ぎたところなので、私たちもここでお昼にすることにしました。

 

 ここの名物はおいしい蕎麦と、ニシン、スルメ、饅頭の天ぷら。ところてんもおいしいです。
 ここは会津。山奥なので海産物はとれません。そこで、海辺から運ばれてくる干魚の身欠きニシンやスルメが、大事な食材になります。ニシンやスルメの天ぷらは、これを水でもどして揚げたものです。

 

Kowashimizu1

 

 右の皿に盛ってあるのが、ニシンとスルメと饅頭の天ぷら。スルメは歯ごたえがあって大きいので、キッチンばさみで切って食べるようになっていました。
 そして、こちらが天ぷらを入れたうどん。……すみません、旦那は蕎麦を頼みましたが、私はうどんにしました。

 

Kowashimizu2

 

 うどんの上に乗っているがニシンの天ぷらと饅頭の天ぷら。饅頭の天ぷらは半分に割ってみましたが、中にあんこが入った普通の茶饅頭を揚げたものです。他所の方に饅頭を天ぷらにするというと、多くの人が「えっ!?」と驚かれ、それを蕎麦やうどんにのせて食べるんだ、と話すと、また「えぇ~~っ!!?」とびっくり仰天されるのが、お決まりになっていますが、会津では昔から祝いの席などでこの饅頭の天ぷらがよく食べられていました。うどんや蕎麦のしょっぱい汁に甘いあんこの饅頭は、実はとても美味しい組み合わせです。醤油をつけて食べてもおいしいです。ぜひ一度お試しあれ。

 

Kowashimizu3

 

 強清水は、その名の通り美味しい湧き水でも有名な場所です。無料でいくらでも飲めるし、ペットボトルに詰めて持ち帰ることもできます。今は落ち葉などが入らないように屋根がかかって、とても衛生的になりました。
 こちらも美味しい水です。白虎隊の隊士たちも、滝沢峠を下りてきた後、戸ノ口原に向かう前に、ここで水を飲んだりしたかもしれません。

 

 さて、この後はいよいよ滝沢峠に向かいます――。

 

(その4に続く)

 

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コメント

「八重の桜」を見ていますが、劇中の地名がわからないため位置関係が分かりにくくて困っていました
こちらのブログのおかげでよく分かりました
ドラマもより一層楽しめそうです

ありがとうございました

投稿: LYNOS | 2013年7月15日 (月) 09:36

>LYNOSさん

この手の地名はとても小さい場所を指していることが多いので、地元の人間じゃないとわかりにくいですよね。
ドラマを楽しむお手伝いができたのなら、私としても、とても嬉しいです。
コメントありがとうございました。

投稿: 朝倉玲 | 2013年7月15日 (月) 09:50

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