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2013年6月24日 (月)

戊辰戦争の進軍ルートを車でたどる・2(猪苗代~十六橋)

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 今回私たちがたどった政府軍進軍ルート(青いマーカー・クリックすると拡大します)


 たった今、今週の「八重の桜」を見終わりました。やはり母成峠の戦いから滝澤本陣の白虎隊出陣、戸ノ口原の戦いまでのストーリーでした。私たちが昨日、車で回って歩いたコースです。
 戦場となった場所の今の様子を写真で紹介しながら、政府軍の動きを追っていきます。
 


 母成峠を政府軍に破られた会津軍は、猪苗代まで撤退しました。
 私たちもその跡をたどるように、土湯街道(国道115号線)を南下して、猪苗代の町を抜け、越後街道(国道49号線)まで出ました。
 猪苗代には、会津藩の初代藩主である保科正之(ほしなまさゆき=三代将軍徳川家光の異母弟)を祀った土津神社(はにつじんじゃ)と、それを守るための亀ヶ城(猪苗代城とも言う)という城がありましたが、とても敵にかなわないと見て、さらに会津へと退却していきます。

 「八重の桜」のドラマでは、この亀ヶ城で新撰組の土方歳三と斎藤一が、仙台と会津へ別れていくやりとりをしていますが、実際のところ、政府軍が猪苗代に到着したときには、会津軍は城と土津神社に火を放って退却した後だったそうです。
 なので、私たちも土津神社や亀ヶ城跡には立ち寄らずに、猪苗代を南下して、越後街道(国道49号線)に出ました。(注:実際の越後街道は猪苗代の町中を抜けていたと思われますが、先を急いでいたので、今回は一番アクセスしやすいところから越後街道に出ました)

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 土湯街道から越後街道に出る交差点です。信号の向こうにはもう猪苗代湖が見えます。

 私たちの感覚からすると、「会津軍はろくに戦いもしないでどんどん逃げていって、なんて情けない!」と思うところなのですが、政府軍と会津軍では火器(銃や大砲)の性能があまりに違いすぎました。向こうの弾は、銃でも大砲でもばんばんこっちへ届いてくるのに、こっちの弾は全然向こうに届かない。敵を狙ったときの精度も、政府軍の銃のほうが、はるかに上です。こっちの攻撃がまったくとどかないのに、向こうの攻撃はいくらでも届くし、狙いは正確だとなれば、敵の攻撃が届かない場所まで下がるしかなかったわけです。
 かくて、会津軍はどんどん後退していきますが、守りの要になったのが日橋川(にっぱしがわ)にかかった十六橋(じゅうろっきょう)でした。

 今の国道49号線は、十六橋より南側の猪苗代湖沿岸で、大きな中州で二筋に別れた日橋川の上を渡っています。橋の名前は金の橋と銀の橋。でも、橋が金色や銀色をしているわけではないし、特に言われもないようなので、あしからず。
 戊辰戦争の頃にはこの二つの橋はなくて、越後街道はもっと北よりの山沿いルートを通っていました。猪苗代湖の遊覧船発着場の向かいから「南が丘牧場・天鏡閣」という案内板が出ていますが、こちらが昔の越後街道です。つまり政府軍の進軍ルート。

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 猪苗代湖の遊覧船乗り場。亀号という遊覧船が停まっていました。他に白鳥号という遊覧船もあって、湖上遊覧が楽しめますが、今回は遊覧目的ではないので、昔の越後街道のほうへ車を進めました。

 ちなみに、天鏡閣(てんきょうかく)は昔の皇族の御療邸で、今は国の重要文化財になってます。これを右手に見ながら坂道を登っていくと、道が二手に分かれています。右は上りで「南が丘牧場」の看板がありますが、十六橋に行くには、ここを左に下っていきます。十六橋のほうは案内が何もないんですよね。ちょっとわかりにくいだろうと思います。
 ちなみに、南が丘牧場は入場無料の観光牧場です。私たちもこれまで何度か行っていたのですが、分かれ道を下りると十六橋だったとは、私も旦那もずっと知らずにいました。

 さて、分かれ道を左へ下りていって、小さなヘアピンカーブをいくつか曲がりながら下っていくと、日橋川の岸辺に出て、そこに橋がかかっています。
 これが、今日の「八重の桜」の最後でも紹介された十六橋です。

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 車は通行できません。なので、歩いて渡ってみます。橋の下は日橋川。猪苗代湖から流れ出る唯一の川で、西へ流れて阿賀川(あががわ)と合流し、やがて新潟県で阿賀野川と名前を変えて、日本海に流れ出ます。
 水運の川だったそうで、この日橋川で荷物の積み卸しをしたとか。今も川岸に船場という地名が残っています。

 今、この橋に平行してあるのは「安積疎水十六橋水門」です。時代は下って明治になってから、明治政府の富国強兵の一環として、今の郡山市にあたる安積原野に、長大な用水路を引くプロジェクトが敢行。オランダから技師ファンドールンを招いて設計して、猪苗代湖の北東から郡山に向けて水を引いたのですが、そのための湖の水位調節用に作られたのが、この水門。石積みのアーチの、なかなか趣のある水門です。
 写真は日橋川の西岸から橋を振り返る形で撮っています。右が十六橋、左が安積疎水十六橋水門です。

Jurokkyou2

 十六橋を渡ったところには、ファンドールンの銅像や記念碑も建っています。知らずに他所から訪れた方は、絶対に「これっていったい何?」と思われるはずなので、これについても少し詳しく書いておきました。

Jurokkyou3_2

 ファンドールンの銅像。この像にも逸話があるけれど、戊辰戦争には関係ないので今回は省略です。

 戊辰戦争の頃にはもちろん、この水門はなくて、橋だけがありました。いざというときには、この橋を落として会津を守る計画だったのですが、政府軍の進軍があまりに早かったので、爆破しきれないうちに政府軍がやってきて、橋を奪われてしまいます。
 「八重の桜」でも、母成峠のきつい山道越えと戦闘を経て、へとへとになった薩摩兵に、「急げ! 遅れる奴は切るぞ!」と指揮官が叱咤激励するシーンがありますが、本当に非常に長くて厳しい行程だと、実際に走ってみてわかります。会津に反撃の隙を与えないように、疾風のごとく攻めてきたわけですが、並大抵の進軍ではなかったことが、実感で伝わってきます。

 とまあ、軍事的には非常に意味が大きかった十六橋なのですが、ここには安積疎水とファンドールン関係の記念碑がいくつもあるだけで、戊辰戦争の記録はどこにも見当たりませんでした。……ちょっと淋しい。(苦笑)

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 古い欄干が残されていました。コンクリートの橋になる前の、石橋の時代のものだと思われます。十六橋の戦いを見てきた証人ですね、きっと。


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 街道はこの先へ曲がりながら続いていきますが、車で進むことはできないので、引き返して、国道49号線から道の続きへ行くことにしました。
 白虎隊の激戦地で有名な戸ノ口原、そして、滝沢峠滝沢本陣へと進んでいきます。


(その3へ続く)
 

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コメント

玲さん、わかりやすい説明ありがとうございました。
ファン・ドールン、そうですね、県外の方にはわからないのかな?私はしっかり覚えていますし、安積疎水の歴史も小学校で習いましたよ~。

投稿: りんか | 2013年6月24日 (月) 10:23

>りんかさん

ありがとう~。誉めてもらえると嬉しいな。(*^^*ゞテレ

福島県民、特に郡山に育った人間なら、ファンドールンの名前を知らない人はいない、ってくらい有名なんですけどね。
他県の方にはわからないでしょうね。(^_^;)
取水口は上戸浜のほうにあるから、それとは反対側の十六橋がどうして安積疎水に関係あるのかわからなくて、かなり本気になって調べてしまいました。
答えは「湖の水位調節のため」――でした。納得。

投稿: 朝倉玲 | 2013年6月24日 (月) 14:47

安積疎水、うわぁ~懐かしい!
小学校の社会で習ったことを思い出しました^^

戊辰戦争では、青龍・朱雀・玄武・白虎の隊分けが有名ですが(中でも白虎隊)、他にも、僧侶や神主たちを集めた隊や、農民や商人たちを集めた隊など、色々あったそうです。

十六橋。
西軍の進軍を食い止めようと橋を落とす作業をしたのは、僧侶や神主たちを集めた「隊」だったとか…。
残念ながら、西軍の武器の精度の高さや行軍の速度で、橋は完全に落とすことができず、逃げたそうです。
(佐川官兵衛の本に書いてありましたが、各隊の名前・内訳をメモることまでしなかったので…残念)

帰省の時は、どこまで回れるかわからないけれど(出不精だからw)行ってみたいです。

投稿: ぺちゃん | 2013年6月24日 (月) 22:21

>ぺちゃんさん

福島県の住人ならば、やっぱり安積疎水はなじみがあるというか、誰もが知っているものですよね~。
安積疎水に水を安定して引くためには、猪苗代湖の水位を調整する必要があった。
だから、猪苗代湖から流れ出る唯一の川である日橋川の十六橋に水門を作った……ということなんですね。

そして、唯一の川にかかる唯一の橋であったから、軍事的にも重要な意味を持つ場所で、ここを先に占拠(会津軍の場合は破壊)することが、両軍にとって非常に大事だったわけです。

佐川官兵衛の指揮で橋の破壊に当たったのは、「奇勝隊」だったらしいですよ。
でも、僧侶や神主達の隊だったとは知らなんだ。
藩士の娘たちは薙刀で戦う娘子隊を編成したし。
本当に、会津は総勢挙げての大戦争だったのですよね。

投稿: 朝倉玲 | 2013年6月24日 (月) 23:20

こんばんは、安積疎水十六橋、長年の疑問が解けました。
安積疎水はほとんど日本人が測量設計し、ファンドールンに監修を依頼しOKが出た、とかどこかで聞きました。

歴史好きの父は、十六橋近くの民家で聞き取りをしたことがあります。地元民は高台の田んぼ付近の神社(祠?)に逃げていたそうです。会津側は橋の中央あたりを壊したが、西軍が木材を敷き、畳(弾よけ用に持っていた)を重ねて渡った。西軍の二刀流使いが橋の上で戦い、会津兵を斬りまくった。当時、茶屋が2軒?あった。他から嫁に来たおばあさんは、戊辰戦争の言い伝えを全く知らなかった、など。

十六橋も母成峠の戦いも、地元で聞き取りした内容と歴史家の記述が異なり、明治期に記録できなかった後遺症で伝承がまちまちになるのもやむを得ないと実感しました。曾祖父は、徴発され、会津戦争で荷物運びなどをやりました。 (大変間延びした家系でございます)

投稿: 阿武熊男 | 2014年3月 9日 (日) 22:52

>阿武熊男さん

初めまして。コメントありがとうございました。

安積疎水の十六橋は取水口とは全然別の場所にあるので、私も本当に疑問でした。今回調べてみて、納得した次第です。

お父様は、戊辰戦争の証人の話を直接聞くことができたのですね!
そのお話をお父様から聞いている阿武熊男さんがうらやましいです。
自分の目で「それ」を見てきた方たちの話は、やっぱり違いますね。
他所から嫁いで来られた方が、戊辰戦争についてまったく知らなかったということ自体、その後、戊辰戦争の話が会津でタブーになっていたことを表しているのでしょうね。
野ざらしになった会津藩士の遺体を、地元の人たちが見るに見かねて一つの墓に埋葬した。亡くなった人の名前もわからないから、墓碑に刻まれたのはただ「〇人墓」という名前だけ。
なんとも言えない思いで、戦場跡を巡りました。

投稿: 朝倉玲 | 2014年3月11日 (火) 11:21

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