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2013年6月24日 (月)

戊辰戦争の進軍ルートを車でたどる・4(滝沢峠~滝沢本陣~鶴ヶ城)

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(クリックすると拡大します。水色のマーカーが私たちの通ったルート)

 強清水を出た後は、滝沢峠(たきざわとうげ)を越えて、いよいよ会津若松市内へ向かいます。

 ところが、現在、峠を越える旧道はハイキングコースになっていて、車で乗り入れることはできません。強清水の店の間の道を通ると国道294号線にぶつかりますが、これが昔の白河街道。これを少し南下したところに峠へ至る沓掛峠(くっかけとうげ)入口という名前で旧道があるはずなのですが、車では行けないので、我々はその北側(地図の赤い線の北側を走っている滝沢街道)を行くことにしました。
 でも、国道294号線に出て、「白河○○Km」の標識を見たとたん、「ここは本当に白河街道なんだ!」と実感しました。白河は関東から東北への玄関口。白河街道は江戸に通じる重要な道でした。強清水の茶屋は、江戸時代には、越後街道を通る人と白河街道を通る人がひと休みする、大切な憩いの場所だったのでしょうね。

 滝沢峠の写真は……すみません、ありません。デジカメのバッテリーがそろそろ危なくなってきて、写真があまり撮れなくなったのと、ヘアピン、ヘアピン、ヘアピンカーブの連続で、カメラを構えるどころではなかったんです。
 「カーブがすごいね」と言ったら、旦那に「峠道はどこもこんなふうだ」と言われました。若い頃バイク乗りだった旦那は、この滝沢峠もバイクで越えたことがあるそうです。

 峠を下ると、戸ノ口堰の水力発電の施設があって、そこも過ぎると滝沢本陣に出ます。
 昨日の「八重の桜」で、藩主松平容保が出陣して陣屋にした場所で、白虎隊二番隊はここから戸ノ口原へ出陣していきました。

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 これは身分の低い人が出入りした方の出入り口から撮った写真。藩主は右の立派な門から出入りしていましたが、普段は閉じられています。(写真には写っていません)

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 中庭から撮った写真。木に隠れて見えませんが、右奥のところに、藩主たちがいた御座之間や偉い家来が控えた御次之間があります。
 中に入って、御座之間に息子に座ってもらいました。昔はお殿様でなければ絶対座れなかった場所です。

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 この滝沢本陣にも政府軍は攻め込んできました。
 本陣内のあちこちに、銃弾の痕や刀傷が残っていて、戦いの激しさを物語っています。

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 弾痕。昇平が座っている御座之間の、向かって左側の壁に残っていました。穴が外に貫通しています。

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 柱に残された刀傷。こんな傷痕が、他の柱にもいくつもありました。

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 破裂した大砲の弾の破片がめり込んだ、会津鶴ヶ城の松の木(を板にしたもの)。金属の破片がしっかり見えます。

 戸ノ口原の戦いで敗退した白虎隊二番隊20名は、滝沢峠を越え、この滝沢本陣のすぐ南側にある飯盛山まで逃げてきました。ところが、山から城のほうを見ると、城が炎上している。実際には、城ではなく敵に火を放たれた城下町が燃えていたのですが、少年たちは城が燃えていると誤解。かくなる上は、と全員で自刃を図った……というのが白虎隊の悲劇です。
 滝沢本陣から下ってすぐの信号を左折すると、飯盛山入口の前に出ます。頂上まで階段やエスカレーターで上がりますが、白虎隊士の墓や彼らが敵を逃れて通ってきた戸ノ口堰の洞窟、国宝のさざえ堂など、見所は満載です。
 でも、私たちはだんだん時間が押してきたので、寄り道せずに城へ向かいました。

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 8月23日の戦いの図。NHK大河ドラマ館の撮影可のパネルから。(クリックすると拡大します)

 慶応4年8月23日、ついに政府軍は滝沢峠を越え、会津若松の城下になだれ込んできました。
 母成峠の戦いが8月21日、十六橋の戦いが8月22日、戸ノ口原の戦いが8月23日で、同じ日のうちに政府軍は若松城下に来襲。……早いです! ほんとうに早いです! 政府軍があまりに早かったので、城は各地に派遣していた自分の兵を呼び戻している暇もなく、鶴ヶ城での籠城戦に移ります。

 地図によると、政府軍は滝沢本陣から、城の正面に当たる甲賀町口などを通って城内に侵入したようですが、ちょっとそこまで調査がしきれなかったので、私たちは東の天寧寺口に当たる場所から、城の正面(北側)を通っている道に入りました。実は学生時代、私はこの天寧寺口に近い場所に住んでいたのです。新しいところと昔のままのところが入りまじった街並みを眺めながら、西へ、鶴ヶ城へと向かいました。

 ここから後は、駆け足で。
 城の三の丸のすぐ東側の「八重と会津博NHK大河ドラマ館」を見学し、息子と旦那は疲れたというので、そこに残して、私一人だけで県立博物館へ「八重の桜特別展」を見に。福島県立博物館は、昔の三の丸の跡に建っています。

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 時間も本当に押し迫ってきたので、とうとう鶴ヶ城そのものは見られませんでした。史実通りの赤瓦に葺き替えて、お色直しをした鶴ヶ城ですが、その美しい姿は、日を改めてまた見に来ようと思います。
 代わりに、博物館で私を出迎えてくれたのは、この鶴ヶ城でした。

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ウィキペディア「若松城」から(Aizuwakamatsu Castle after the Battle of Aizu, 1868 photograph.)
(クリックすると拡大します) 

 戊辰戦争で、鶴ヶ城は一ヵ月におよぶ籠城戦を行い、ついに政府軍に降伏します。
 その後、取り壊しになる前に、とある写真技師が鶴ヶ城を撮影したのが、この写真なのですが、これの特大パネルが企画展の入口に飾られていました。
 激しい砲撃に、天守閣は、屋根は壊れ壁は崩れて、穴だらけになっています。

 これまで何度も見てきたはずの写真だったのに、これを見たとたん、私は立ちつくしました。
 こんなになるまで戦い抜いたんだ。戦力の差はあまりに明白なのに。勝てるはずはない、負ける戦いなのだとわかっていたのに。それでも、みんな、お城でずっと戦ったんだ。こんなにぼろぼろになるまで……。

 疾風怒濤のごとく会津に攻めてきた政府軍。
 戦力的に絶対にかなわなかったのに、それでも一致団結して抗戦し続けた会津藩士と家族たち。

 なんてすごい戦いだったんだろう、とつくづく思いました。文字通りの死闘です。
 そして、この戦いがあったのは、大昔のことなんかではなく、たった150年足らず前のことなのです。

 私の両親が生まれ、私も高校時代を過ごした会津。
 雪が深くて、寒さが厳しくて、夏は暑い会津。
 頑固で素朴で温かくて曲がったことが嫌いな人たちが、大勢住んでいる会津。

 政府軍の進軍ルートをたどる形で会津の戊辰戦争を追いかけて、会津の昔と今を万感の想いで振り返りました。


【おまけ】
 会津でもうひとつ有名なのが「ソースカツ丼」。いくつもの食堂が、伝統会津ソースカツ丼の会というのを作って、店ごとに特色のあるソースカツ丼を提供しているので、私たちも食べてきました。

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 これは滝沢本陣に近い万世楼飯店のソースカツ丼。ソースをたっぷり染み込ませたカツが、ご飯とたっぷりのキャベツの上にのっていました。ついにカメラがバッテリー切れになって携帯で撮ったので、写りが今ひとつなのが残念です。
 ソースカツ丼もうめえがら、食ってみっせ♪

(「戊辰戦争の進軍ルートを車でたどる」・完)


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