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2013年6月23日 (日)

戊辰戦争の進軍ルートを車でたどる・1(本宮~母成峠)

 2013年6月22日(土)

 

 旦那が久しぶりに休みを取れたので、私の発案で、息子と3人で会津へドライブに行きました。
 目的は「戊辰戦争の政府軍の進軍ルートを、可能な限り車でたどってみること」
 今年、私はNHK大河ドラマ「八重の桜」にはまっていて、ちょうど今、戊辰戦争で政府軍が会津へ攻め込んで来ようとしています。おそらく今日の放送で、この進軍ルートを通るはず。放送に先立って、そのルートを車で走ってみたい、と考えたのでした。

 

Shingunzumwithmarker_2 (クリックすると拡大します)

 

 これは会津若松の大河ドラマ館に展示してあった図です。撮影可のところだったので、ちょっと失礼して、カメラでパチリ。青のマーカーでなぞったルートを政府軍が進軍したのですが、そこを私たちも車で走ってみました。

 

 

 まず、伊達市から国道4号線(昔の奥羽街道)を南下して、本宮(もとみや)ICの北側にある越後街道(会津街道とも言う)入り口から西へ向かいます。

 

Aizukaidouiriguti_3
 会津街道入り口交差点から西へ

 

 旧越後街道は現在の県道8号線。田んぼの間の田舎道がずっと続きます。
 ときどき道が脇の集落へ別れては、またこちらの道に戻ってきます。おそらく、あちらが元々の越後街道で、車が走るには狭くなってしまったので、集落の外側に新しい道を作ったのでしょう。
 集落の中に余所者の車が入っていくのは迷惑になるので、横目で見ながら走ります。

 

 

 国道49号線との立体交差
49senshita_3

 

 磐梯熱海の手前で国道49号線(バイパス)の下を通ります。
 ここを過ぎて間もなくのところから、政府軍は右折をして越後街道を離れ、北の母成峠へ向かいました。

 

 戊辰戦争の際、会津を攻めることに決めた政府軍の板垣退助たちは、会津軍が越後街道の中山峠で待ち伏せていると読んで、その裏をかくために、北側の母成峠(ぼなりとうげ)に迂回したのです。石筵(いしむしろ)という集落を通りぬけ、北へ、母成峠へと向かいます。

 

 はっきり言って、けっこう長い上り道です。峠まで下りはほとんどありません。
 ここを政府軍の兵士たちは、重い鉄砲を担ぎ、大砲を載せた車を押したり引いたりして登っていったのです。当時は今みたいに道路も舗装されていないので、ものすごい体力が必要だったはずです。車や便利な道具に慣らされた我々にはとてもできない、と実感しました。
 ちなみに、これに先立って、会津軍は政府軍に宿場を与えないために、石筵村に火を放って焼いてしまったのだそうです。これが村人の恨みを買い、村人が政府軍の案内役に立ったために、政府軍はこれほど早く進軍できたのだとか。戦いというのは単純な敵味方の構図では描ききれませんね。

 

 今は石筵の風景はこんなにのどかです。牧場を経営している農家も多いです。

 

Ishimusirohanareyama

 

 行く手に見えるのは離山。別名「おにぎり山」と言うとか。見事な三角形です。

 

 

Ishimusirobokujou

 

 郡山市立石筵ふれあい牧場の入口。親子連れが大勢ピクニックや牧場体験に訪れます。

 

 

 母成峠は石筵ふれあい牧場の先、畜産研究所の手前右手(東側)に入口があります。案内板などはないので、ちょっとわかりにくいですが、駐車場があって、記念碑が建っていました。

 

Bonari1

 

 

Bonari2

 

 

Bonari3

 

 東軍(会津軍)には新撰組も一緒に加わっていました。東軍に土方歳三の名前があります。西軍には板垣退助の名前が。

 

 

Bonari4

 

 記念碑は昭和57年に建てられました。この黒い石碑の後ろには、記念碑を建てるのに寄付した個人や企業の名前がずらりと刻まれていました。福島県人なら、見ると「おおっ!」と思う名前がたくさんありました。
 今は激戦地跡に花が咲き、蜜を求めて虫が訪れています。

 

Bonari5

 

 会津軍は政府軍が裏をかいて母成峠を来ることを見破って待ちかまえていましたが、会津軍800名に対して、政府軍は3千名(2,200名とも)。多勢に無勢、軍備のレベルもまるで違い、しかも濃霧まで出ていたそうで、会津軍はたちまち敗退。政府軍は峠を下って、遠く土湯峠(つちゆとうげ)から猪苗代(いなわしろ)へ通じている土湯街道(=現在の国道115号線)へ出て、会津の出城に当たる猪苗代城へと進軍していきました――。

 

Nakanosawaspa

 

 上の写真は、土湯街道に突き当たる手前にある中ノ沢温泉。ひなびた温泉街ですが、近くにある沼尻鉱山が全盛期だった頃(明治~大正時代)に安達太良山の源泉から引き湯をして始まったというので、戊辰戦争の頃にはまだなかっただろうと思います。
 政府軍はこの地点を抜けて、一気に猪苗代へ攻め下っていったのです。

 

 

(その2へ続く)

 

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コメント

昨日放送の八重の桜をもちろん見てまして、知っている地名ももちろん出て来ましたし、母成から抜けてくるっていう説明も含め、位置が頭に入っているので、玲さんのブログを読んで再確認しています。

母成峠古戦場石碑って随分新しいものなのですね。(私にしては(笑)なので、昭和57年っていうと・・・と思い出していますが)
土湯峠や中山峠を越えて会津/喜多方まで出かけることが多かったので、母成グリーンラインってそれほど記憶になかったのです。

素敵なドライブ、報告ありがとうございます。

投稿: りんか | 2013年6月24日 (月) 10:31

>りんかさん

うん、新しいですよね。
旦那が大学生の頃、ここまでツーリングに来て休憩した、と言ってました。
でも、ここが母成峠の古戦場跡だという認識はなかった、と。
案内もなんにも出てないんですよね~。
標識くらい、つけても良いと思うのに。

母成グリーンラインは、昔は有料だったけど、今は無料になったので、気軽に観に行けますよ♪

投稿: 朝倉玲 | 2013年6月24日 (月) 14:50

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