あれから2年
2011年3月11日、午後2時46分。
あの大震災から、あと少しで丸2年がたちます。
今日の福島県は、一昨日から強風がまだ吹き荒れています。昨夜は雪も降りましたが、風が強すぎて横殴りの吹雪で、ほとんど積もらずに吹き飛ばされてしまいました。
2年前のあの日も、寒い日でした。
大きな余震が続く中、家の中に入るのも不安で庭に立っていたけれど、雪が降り出し風も吹き始めて、「どうしましょうか?」「公民館が避難所になっているって。行こうか?」「お義父さんと昇平が無理ですよね。車の中は」「そこも夜中には氷点下になるよ」「じゃあ、思い切って家に戻りましょう」……そんな会話を義母として、家に入ったのを思い出します。
外れた戸を戻し、倒れた戸棚を起こし、まずは居場所を作り、家中から食料や飲料水や布団などを集め……。
灯りも暖房もない部屋の中、男性たちは早々に寝てしまったけれど、私と義母だけはまんじりともせずに夜を過ごしました。「早く朝よ来い」と念じながら。夜中までつけていたラジオでも、「明朝の日の出は○時○分です」と何度も繰り返していました。同じような長い夜を眠れずに過ごしていた人は、大勢いたのでしょう。
翌日からの私は活動的でした。
めちゃくちゃになった部屋を一生懸命片づけながら、ラジオに耳を傾け、原発が爆発したことも、放射性物質が飛来していることも聞きながら、いつ何をどう行動するべきかをずっと考え続けていました。
避難すればリスクは必ず弱者に向かいます。高齢者を2人、障害児を1人抱えている我が家の場合、行動は慎重に選択しなくてはなりません。
測定された環境放射線量、新聞などで発表される情報、自治体からの発表や指示……。一生の間にこれほど真剣に新聞を読んだ時期があっただろうか、というほど、一生懸命新聞を読み、確かな情報を得ようとし、その上で行動を決めていきました。その結論が、「私たちは避難をしない」であり、「今の状況より悪化しない限り、このままずっとこの福島で生きていく」という決断でした。
軸足が定まれば、あとはそれに基づいて行動あるのみ。
昇平が入学することになっていた高校は無事だったので、学校のない日に彼の居場所になるはずだったフリースクールの移転・再開のために、仲間のお母さんたちと奔走し、精神的にダメージを受けた長男のために関東へ足を運び、同じく不安定だった昇平を支えました。家に修理の大工さんが出入りを繰り返し、落ち着かない生活が続く中、義父の認知症が音もなく進行し始めましたが、義母と相談しながら対応を考え……。
そんな日々の中で、私は繰り返し思っていました。
一番大切なものは、まだ私の手の中にある。だから、私は幸せ。だから、私はがんばっていける。
あの激しい揺れの中、目の前で壊れていく家からは、昇平の悲鳴が聞こえてきていました。
長男を迎えに行くために、車でひた走った道には、ブロック塀が倒れ屋根瓦が散乱していました。
火の気のない台所で震えていた義父は、私の見つけてきた上着を着込み、カセットコンロの火に手をかざして、「ああ、あったかい、あったかい」と繰り返しました。
私が失ったかもしれない人たちは、今も元気で私と一緒に生きています。
家だって、あちこちまだ壊れたままだけれど、今もびくともせずに私たちを守っています。
だから、私は幸せ。
あの時も、今も、やっぱり幸せ。
これはきっと、究極の幸せなんだろうと思います。
私が生きていくために、絶対に必要な、欠かせないものなのでしょう。
「もう終わりだ! 何もかも終わったんだ!」
揺れが収まった家から出てきた昇平が叫んでいたけれど、私は繰り返し言いました。
「終わりじゃないよ。これからまた始まるんだよ」
そのことばの通り、あの日を再スタートにして、私たちはここまで生きてきました。本当の復興、本当の解決をみるまでには、まだまだ長い時間が必要なのでしょうが、それでも私たちは前に向かって進んでいます。
願わくば 家族や家、友人、生き甲斐だった仕事、かけがえのない本当に大切な存在を失ってしまった方たちも、一日も早くまた元気になっていってくださいますように。
あせらなくて良いから、ゆっくりと、また生きる元気を取り戻してくれますように――。
3.11.14:46
多くの魂が安らかに眠ってくれますように。
多くの方たちが心の安らぎを得ることができますように。
私は心から祈り続けます。
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