被災地見学その4~福島県飯舘村・福島市花見山~
伊達郡桑折町そして飯舘村
浜通りの被災地を見に行った前日の4月23日、私はKさんをフリースクールへご案内した後で、伊達市に隣接した伊達郡桑折町(こおりまち)にもお連れしていました。放射線の数値が高いために全町民が避難をしている浪江町(なみえまち)の仮設住宅があるからです。
雨が降ったりやんだりのあいにくの天候でしたが、仮設住宅の敷地の周りではソメイヨシノが満開でした。
故郷に帰りたくても帰れない浪江の人たちが、美しい桜を見て少しでも心慰められるといいな――と思いました。
津波で壊滅的な被害を受けた相馬市磯部地区で、地元のおじさんの話を聞き、なぎ倒された松林の跡地を眺めてから、私たちは115号線を通って阿武隈山系に入りました。福島市へ向かう道ですが、Kさんの承諾を得て、ちょっと寄り道をしました。浪江町と同様、放射線量の数値が高いために全村民が避難している、飯舘村(いいたてむら)を見るためです。
車で通過しただけだったので、飯舘村の写真はありません。ただ、どの家もどの事業所も扉を閉じ、窓にはカーテンを引いていました。人の姿はまったくありません。車も、途中で一台すれ違っただけでした。たった一軒、窓のカーテンが開いている家がある、と思ったら、玄関の前に自家用車が停まっていました。避難先から一時帰宅しているようです。
人の気配のしない村は、ゴーストタウンのようでもあるけれど、家々はしっかりと建っていて、廃墟の町とも違いました。主人のいない庭先では桜や水仙が美しく咲き乱れています。聞こえてくるのは、高らかにさえずるヒバリの声。村は生きているのに、人がいない。とても不思議な光景です。
ただ、田畑だけは荒れ始めていました。日本の耕地というのは、ずっと耕し続けなければ、すぐに荒れてしまいます。耕作しなければ、数年で原野に戻ってしまうとも聞きます。3.11の震災から1年あまり。その間、飯舘村の田や畑は放置されています。春が来て、去年の畑の痕からまた育ってきたのか、大きな緑の株が伸びていました。野生化した青菜か、あるいはキャベツか白菜か……。農家の人たちは、荒れていく農地にどんな気持ちでいることでしょう。
その時、私とKさんは同時に声を上げました。
「サルだ!!」
荒れた畑の中に、ニホンザルの群れがいたのです。その数、ざっと20頭。畑のあちこちに散って、のんびり餌を食べています。山にサルはいますが、こんな道路に近い畑にサルが群れで出てくることなどありませんでした。人間がいないことを知って、集団で現れたのに違いありません。
村がサルの里になっている。なんとも複雑な想いでその光景を眺めました。
福島市花見山
その後、ちょうど見頃を迎えた福島市の花見山にも回りました。
今年は臨時駐車場から花見山までシャトルバスが出ています。花見山自体は花木の養生のために閉鎖中ですが、周辺の散策路から、花におおわれた山の姿を楽しむことができます。
駐車場には県外ナンバーの車がたくさん並び、午後遅めの時間だったのに、花見山にはまだ観光客がいっぱいでした。
周囲の店の人たちは立ち寄る観光客に笑顔で精一杯のサービスをしていました。
放射線の影響を心配して観光客が来ないのではないか……と、風評被害をとても心配しながら、この花の時期を迎えたのだろうと思います。休憩所の旦那さんなど、店をほったらかしで撮影スポットの説明などをしていました。土産物屋の若女将も「去年はお客さんがとても少なくて、とても淋しかったんですよ。来年もどうぞまた来てください」と言っていました。
そんな人たちにできる応援は、買い物をして経済支援をすること、とKさんはいろいろ地元の土産物を買ってくださいました。私もお土産を買って、ついでに花見山に募金をしてボードにメッセージを残しました。「ことしもキレイでしたね、花見山!」と。
これから必要なもの
東北や北関東の被災地が完全に復興を遂げるには、まだまだ時間がかかります。特にこの福島県では、本当に長い長い時間が必要になることでしょう。
Kさんがフリースクールの見学をしたときに、最後に私たちに聞いてくださいました。
「これからどんな支援がしてほしいと思いますか? どんなものが必要ですか?」
すると、スクールのS先生は言いました。
「物に関しては必要なものはだいたい揃った感じです……。一つだけぜひお願いしたいのは、被災地をこれからもずっと忘れないでいてほしい、ということなんです」
私は「被災地の様子を自分の目でありのままに見てほしいです」と答えました。誰かの一方的な意見や見解ではなく、自分自身の目で現地を見て、自分自身の耳で現地の人の話を聞いて、その上で、被災地や被災者のことを考えていってほしいんです、と。
それを思って計画した、今回の見学コースでした。
Kさんのためと言いながら、私たち自身も、これまで知らなかった場所の様子や地元の人の話を確かめることができました。
私たちが何をしていくべきか。私にできることは何なのか。
そして、日本中、世界中の人たちと、どう手を取り合って復興していったら良いのか。
そんなことを考えながら、「これからも細く長くおつきあいをよろしくお願いします」と言って、Kさんと福島駅前でお別れしました。
おまけ
津波で壊滅した相馬市磯部の海岸で咲いていたタンポポ
どんなに災害は大きくても、春はこうしてまたやってきました。
福島をはじめとする被災地にだって、「復興」という名の春は必ずめぐってくるはずです――。
(被災地見学・完)
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コメント
忘れないよ。
あったり前だがね。
投稿: さゆた | 2012年4月26日 (木) 10:32
>さゆたさん
ありがとう。
私のほうでも、また沿岸部に行ったときには
そのときの復興状況を報告したいな、と思ってます。
投稿: 朝倉玲 | 2012年4月26日 (木) 10:40