被災地見学その1~福島県新地町~
私は福島県伊達市に在住しています。昨年3月11日には被災しましたが、避難所に行くこともなく困難な日々を乗りきり、家の修理もひとまず終わって、1年が過ぎた今ではほぼ落ち着いた生活を送れるようになりました。
そこへ、二男のフリースクール再開の際にアメリカで募金活動を行ってくれた、在米日本人サポートグループの代表のK.W.さん(国際結婚をなさった日本人女性です)が、一時帰国がてらフリースクールの見学にいらっしゃることになり、被災地の様子も見て回りたいとおっしゃるので、伊達市内や浜通りと呼ばれる福島県沿岸部などをご案内することにしました。
怪我がようやく治った旦那に運転手を頼み、4月24日に新地町と相馬市へ。これは、その時に撮った写真の数々です。
新地町・釣師浜(つるしはま)
ここは福島県の一番北の端にある町です。震源地の宮城県に近いので、津波で大きな被害を受けました。
新地町に入ると、道路脇の地面が泥でおおわれています。津波で一面瓦礫におおわれた場所ですが、1年が過ぎ、打ち上げられた船や壊れた家などはほとんど撤去されていました。
家はすっかりなくなって、残ったのはコンクリートの基礎部分だけ
散乱するコンクリート片と傾いて残った電柱
この新地の釣師浜には海水浴場があって、小さかった長男をつれて何度か遊びに来たことがありました。
ところが、浜へ続く道路が途切れていて海辺に行けません。水のないところを通り、壊れた堤防を乗り越えてみました。振り向くと、以前はたくさんの家が建ち並んでいた場所が、変わり果てた景色になって広がっています。堤防の内側は、残った海水が溜まっていて水路のようでした。
途切れた道路の端に立つKさんと旦那
津波で壊れた堤防と水路のように溜まった海水。左手には住宅地が広がっていた。(2枚の写真を結合)
コンクリートの堤防が壊れている……!! 自分の目が信じられませんでした。こんなに分厚いのに。こんなに頑丈そうなのに。あの日、多くの海辺の人たちが、同じ想いで壊れていく堤防を見ていたのだと思います。
浜へ下りる階段のポールが曲がっていた
金属製のポールがぐにゃり
東屋。固定式のテーブルがフェンスの横に転がっている
目を転じれば、あの頃と同じ海
あそこで長男を遊ばせたっけ。小さな姉妹が二人、はしゃぎながら海へ駆けていくのを見たなぁ……。そんなことを思い出しながら、海を眺めました。本当に、今はこんなに穏やかに見える海なのに。
浜辺に一つだけ残った建物
近寄ってみると、窓も戸もすっかりなくなっている。2階の窓枠も曲がっている。
中をのぞくと設備が残っている
右側の窓からのぞくと、テーブルがひとつ
部屋にぽつんと立てかけられたテーブルには、「昭和54年4月吉日 寄賜 第走号(?) 大戸浜 寺島シノブ」という文字が読めました。
帰宅してから調べてみたところ、この建物は相馬双葉漁業組合の新地支所だそうです。さし網や底引き網の漁の他に、養殖や漁場の開発などにも力を入れてがんばっていたとのこと。残されていた設備も、そのためのものだったのかもしれません。関係者はどれほど悔しいことだろう……と思いました。
さて、釣師浜を離れて南へ走り出すと、道路脇に現れたのは――
瓦礫の山
テレビで観る気仙沼や石巻ほどではないかもしれませんが、ここでも瓦礫が山積みになっていました。
枯れ木の瓦礫の山
プラスチック系の瓦礫の山
瓦礫は木材、プラスチック、その他(可燃物が含まれた泥の山)に、綺麗に分類されていました。枯れ木は、津波になぎ倒された防風林なのだそうです。処分するにもきちんと分類しなくてはならないのですね。
ただ、被災地の瓦礫処理は全国の自治体からなかなか受け入れてもらえません。放射線量が全然心配ないレベルの宮城県や岩手県でさえ拒否されてしまうなら、福島県内の瓦礫なんてどこからも引き受けてもらえないのでしょう。
これから、これはどう処理されていくんだろう、と思いながら、瓦礫の山からも離れました――。
(以下、その2に続く)
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コメント
写真に見入りました。
ご報告ありがとう・・・。
お客様はどのように感じられたでしょうね~。
投稿: りしょう | 2012年4月25日 (水) 19:10
>りしょう先生
コメントありがとうございます。
お客さまは、「自分の目でしっかり見させてもらいました」とおっしゃっていました。
アメリカに戻ったら、自分の見た者をみんなに伝えます、とも言ってくださいました。
地元の方から直接話が聞けたりと、短時間ながら奥深い見学だったと思います。
投稿: 朝倉玲 | 2012年4月26日 (木) 08:13