« 2012年3月 | トップページ | 2012年5月 »

2012年4月26日 (木)

被災地見学その4~福島県飯舘村・福島市花見山~

伊達郡桑折町そして飯舘村
 浜通りの被災地を見に行った前日の4月23日、私はKさんをフリースクールへご案内した後で、伊達市に隣接した伊達郡桑折町(こおりまち)にもお連れしていました。放射線の数値が高いために全町民が避難をしている浪江町(なみえまち)の仮設住宅があるからです。
 雨が降ったりやんだりのあいにくの天候でしたが、仮設住宅の敷地の周りではソメイヨシノが満開でした。

20120423koori01


 故郷に帰りたくても帰れない浪江の人たちが、美しい桜を見て少しでも心慰められるといいな――と思いました。

20120423koori02


 津波で壊滅的な被害を受けた相馬市磯部地区で、地元のおじさんの話を聞き、なぎ倒された松林の跡地を眺めてから、私たちは115号線を通って阿武隈山系に入りました。福島市へ向かう道ですが、Kさんの承諾を得て、ちょっと寄り道をしました。浪江町と同様、放射線量の数値が高いために全村民が避難している、飯舘村(いいたてむら)を見るためです。

 車で通過しただけだったので、飯舘村の写真はありません。ただ、どの家もどの事業所も扉を閉じ、窓にはカーテンを引いていました。人の姿はまったくありません。車も、途中で一台すれ違っただけでした。たった一軒、窓のカーテンが開いている家がある、と思ったら、玄関の前に自家用車が停まっていました。避難先から一時帰宅しているようです。
 人の気配のしない村は、ゴーストタウンのようでもあるけれど、家々はしっかりと建っていて、廃墟の町とも違いました。主人のいない庭先では桜や水仙が美しく咲き乱れています。聞こえてくるのは、高らかにさえずるヒバリの声。村は生きているのに、人がいない。とても不思議な光景です。
 ただ、田畑だけは荒れ始めていました。日本の耕地というのは、ずっと耕し続けなければ、すぐに荒れてしまいます。耕作しなければ、数年で原野に戻ってしまうとも聞きます。3.11の震災から1年あまり。その間、飯舘村の田や畑は放置されています。春が来て、去年の畑の痕からまた育ってきたのか、大きな緑の株が伸びていました。野生化した青菜か、あるいはキャベツか白菜か……。農家の人たちは、荒れていく農地にどんな気持ちでいることでしょう。

 その時、私とKさんは同時に声を上げました。
「サルだ!!」
 荒れた畑の中に、ニホンザルの群れがいたのです。その数、ざっと20頭。畑のあちこちに散って、のんびり餌を食べています。山にサルはいますが、こんな道路に近い畑にサルが群れで出てくることなどありませんでした。人間がいないことを知って、集団で現れたのに違いありません。
 村がサルの里になっている。なんとも複雑な想いでその光景を眺めました。


福島市花見山
 その後、ちょうど見頃を迎えた福島市の花見山にも回りました。
 今年は臨時駐車場から花見山までシャトルバスが出ています。花見山自体は花木の養生のために閉鎖中ですが、周辺の散策路から、花におおわれた山の姿を楽しむことができます。

 駐車場には県外ナンバーの車がたくさん並び、午後遅めの時間だったのに、花見山にはまだ観光客がいっぱいでした。
 

20120424hanamiyama01


 周囲の店の人たちは立ち寄る観光客に笑顔で精一杯のサービスをしていました。
 放射線の影響を心配して観光客が来ないのではないか……と、風評被害をとても心配しながら、この花の時期を迎えたのだろうと思います。休憩所の旦那さんなど、店をほったらかしで撮影スポットの説明などをしていました。土産物屋の若女将も「去年はお客さんがとても少なくて、とても淋しかったんですよ。来年もどうぞまた来てください」と言っていました。
 そんな人たちにできる応援は、買い物をして経済支援をすること、とKさんはいろいろ地元の土産物を買ってくださいました。私もお土産を買って、ついでに花見山に募金をしてボードにメッセージを残しました。「ことしもキレイでしたね、花見山!」と。


これから必要なもの
 東北や北関東の被災地が完全に復興を遂げるには、まだまだ時間がかかります。特にこの福島県では、本当に長い長い時間が必要になることでしょう。
 Kさんがフリースクールの見学をしたときに、最後に私たちに聞いてくださいました。
「これからどんな支援がしてほしいと思いますか? どんなものが必要ですか?」
 すると、スクールのS先生は言いました。
「物に関しては必要なものはだいたい揃った感じです……。一つだけぜひお願いしたいのは、被災地をこれからもずっと忘れないでいてほしい、ということなんです」
 私は「被災地の様子を自分の目でありのままに見てほしいです」と答えました。誰かの一方的な意見や見解ではなく、自分自身の目で現地を見て、自分自身の耳で現地の人の話を聞いて、その上で、被災地や被災者のことを考えていってほしいんです、と。
 それを思って計画した、今回の見学コースでした。
 Kさんのためと言いながら、私たち自身も、これまで知らなかった場所の様子や地元の人の話を確かめることができました。

 私たちが何をしていくべきか。私にできることは何なのか。
 そして、日本中、世界中の人たちと、どう手を取り合って復興していったら良いのか。
 そんなことを考えながら、「これからも細く長くおつきあいをよろしくお願いします」と言って、Kさんと福島駅前でお別れしました。


おまけ
20120424soumaisobe08
 津波で壊滅した相馬市磯部の海岸で咲いていたタンポポ


 どんなに災害は大きくても、春はこうしてまたやってきました。
 福島をはじめとする被災地にだって、「復興」という名の春は必ずめぐってくるはずです――。


(被災地見学・完)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2012年4月25日 (水)

被災地見学その3~福島県相馬市磯部地区~

相馬市・磯部(いそべ)
 相馬港の南の尾浜から一度内陸に向かって相馬市内に入り、相馬市で一番被害がひどかったという磯部地区へ向かいました。
 相馬市内は無事な家がたくさんありました。営業している旅館や飲食店、改築してオープンした店なども並んでいます。津波で壊れたり泥をかぶったりした家は見られますが、少し高台になると津波に遭った痕もなくなります。ほんの少しの高さの差が、津波の被害を分けていました。「大きな地震の後には津波が来るから、少しでも高いところへ逃げろ!」というのは本当のことなんだ、と改めて実感しました。

 ところが、磯部地区に着くと――

20120424soumaisobe04


 本当に、何もありません。あるのは高く積み上げられた瓦礫と、その中を伸びる道路だけ。そこを工事用車両が走っています。

 ここも立ち入り禁止かと思ったのですが、海のすぐ近くまで行くことができました。小さな港になっていた場所です。

20120424soumaisobe03


 海に面した場所に、白いものが集められていました。

20120424soumaisobe01
 

 漁船でした――。

20120424soumaisobe02_2


 この場所に先客がいました。バイクに乗ってきた初老の男性です。くわえ煙草で海と船を眺めていましたが、私とKさんが遠慮しながら近づいて「こんにちは」と挨拶をすると、「あんたたち、どっから来たの?」と聞いてくれました。そこで私がKさんを示して、「こちらの方はアメリカからなんです」と答えると、おじさんはさすがにびっくり。でも、「福島のためにアメリカで募金活動をしてくださって、被災地の様子を自分の目で見たいというのでお連れしたんです」と説明すると、納得したのか、おもむろにこの場所のことを話して聞かせてくれました。

 「ここにはたくさんの船が並んでいたんだ。60隻あったんだ。あそこから出て、こう進んでいって、外海に出たんだ。その船はみんな(津波に)打ち上げられて、あそこに集められてる。60隻全部だ……」

 おじさんはとつとつと話し続けます。
 船が置いてある場所の前には漁協の磯部支所があったこと、自分の家は国道6号バイパスから1キロほど内陸だったので津波から無事だったこと、6号バイパスが堤防のようになったので津波がそこで停まったこと、でも親戚の家は流されてしまったこと、みんなラーメン屋の2階に避難したのだということ、こちらには磯部の集落がずっと広がっていたのに今はもう何もないこと、あるのは瓦礫の山だけだということ。

20120424soumaisobe05_2


 何もなくなった場所に、うず高い瓦礫の山が見えています。横で動いているのは大型のショベルカーです――。

 木材の瓦礫の山は津波になぎ倒された防風林なのだ、と教えてくれたのも、このおじさんでした。
 とたんに思い出しました。この場所は、松川浦と外海を隔てる形で伸びた大洲と呼ばれた場所で、海岸線にそって何キロも松の防風林があったのです。私はその中を何度もドライブしたことがあったのに、景色があまりに変わりすぎていて思い出せなくなっていました。

 「何もなくなっちまった。本当に何もなくなっちまったんだ」
 とおじさんはくわえ煙草で言い続け、少し間を置いてから、こうも言いました。
「でもなぁ、津波は天災だからどうしようもないんだよな。ただなぁ、この放射能だけは本当に困ったもんだ」
 怒るでも恨むでもない、おじさんの声。ただとにかく本当に困っているんだ、という口調。
 福島県の漁業関係者は、原発事故以来、ずっと操業を自粛しています。
 船や港が使えなくなったからだけではなく、たとえ船を出すことができても、漁をすることができないのです。
 一部の水産物から基準値を上回る放射線量が検出されているから。そして、「福島の魚だ」というだけで、消費者は怖がって買ってくれないだろうから……。
 津波が何もかもをさらっていっただけでなく、漁を再開する見通しさえ立たないのが現状です。

 ふいに、このおじさんは漁師で、打ち上げられた自分の船を見ていたんじゃないか、と思いつきました。海に出たくても出られない。待てばいつか海に出ることができるのか、それさえもわからない。そんな状況の中で、このおじさんも、毎日のようにこうしてバイクで海と船を見に来ていたのかもしれない……。そんな気がしたのです。

 「この場所のことを、よく見ていってください」とおじさんが言いました。
 Kさんは「はい、しっかり見させていただきます」と答えました。「おじさんも、どうぞお元気で」とも。
 おじさんは最後まで煙草をくわえたまま、バイクに乗って去っていきました――。


相馬市・大洲海岸(おおすかいがん)
 その後、防風林が広がっていた大洲海岸まで行きました。
 あれほどうっそうと生えていた松林が、ほとんどなくなっていました。

20120424soumaisobe06


 松林の中には気持ちの良い公園があって、そこで大勢の家族連れがキャンプやバーベキューをしたり、目の前の海へ泳ぎに行ったりしていました。海浜自然の家は残っていましたが、先に見た建築事務所のように、中がすっかりなくなって、コンクリートの外側だけになっていました。
 わずかに残った松の木は、海水をかぶって立ち枯れていました――。

20120424soumaisobe07_3
 枯れた松を見上げる旦那


 集落一つが完全になくなってしまった相馬市磯部地区。外海から津波がやってきたら、さえぎるものは何もない場所です。
 どうしたらここを再興できるのか。いつ、どんなふうにしたら、元に戻っていけるのか。
 ただでさえ大変な復興の足を、原発事故が、今も引っぱっています――。

(以下、その4へ続く)

  


| | コメント (0) | トラックバック (0)

被災地見学その2~福島県相馬港~

相馬市・尾浜(おばま)
 福島県北端の新地町を離れ、海岸沿いに南下していって、相馬市へ向かいました。
 沿岸の大半の家は撤去されていますが、まだ建っている家も少しあります。でも、人が住める状態ではありません。

20120424soumaobama01
 1階部分が大破した家。まだ新しそうなのに……


20120424soumaobama02
 「建設」という文字だけ入口の上に残った建物


 目的地は相馬港だったのですが、関係者以外立ち入り禁止でした。そこで、そのすぐ南側の尾浜へ行きました。ここも子どもたちを何度も連れてきた海水浴場です。ここは比較的設備がしっかり残っていて、海の見える場所に新しくベンチが据えられていました。天気の良い日で、お年寄りが二、三人、ベンチに座っていました。

20120424soumaobama03
 海に面したベンチに、よいしょ、と座るおばあさん。白い建物は公衆トイレ。その向こうが相馬港


 どう見ても地元の方です。なんとなく、毎日そうやって海を見に来ているのではないかな、と思いました。何を想いながら海を見るのだろう、とも考えました。目を足元に向けると、浜へ下りる階段の上に、花束と線香がありました。花はすっかり枯れていました。春の彼岸の頃に手向けられたものかもしれません。
 海はそこに住む人たちから大切なものを奪い取っていきましたが、それでも、住人は海を眺めるのですね――。

20120424soumaobama04
 枯れた花束と線香


 海に背を向けて内陸へ目を転じると、ここにも土台痕だけになった住宅地が広がっていて、何人もの作業員が瓦礫を撤去していました。

20120424soumaobama05
 瓦礫の撤去作業中


20120424soumaobama06
 工事中だった松川浦大橋。手前には漁船。


 南の方へ通じる松川浦大橋は津波で破壊されましたが、復旧工事の最中でした。
 内陸奥深くまで津波が押し寄せた場所ですが、相馬港は浜通り北部の重点港なので、大急ぎで直しているようでした。

(以下、その3に続く)
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

被災地見学その1~福島県新地町~

 私は福島県伊達市に在住しています。昨年3月11日には被災しましたが、避難所に行くこともなく困難な日々を乗りきり、家の修理もひとまず終わって、1年が過ぎた今ではほぼ落ち着いた生活を送れるようになりました。

 そこへ、二男のフリースクール再開の際にアメリカで募金活動を行ってくれた、在米日本人サポートグループの代表のK.W.さん(国際結婚をなさった日本人女性です)が、一時帰国がてらフリースクールの見学にいらっしゃることになり、被災地の様子も見て回りたいとおっしゃるので、伊達市内や浜通りと呼ばれる福島県沿岸部などをご案内することにしました。
 怪我がようやく治った旦那に運転手を頼み、4月24日に新地町と相馬市へ。これは、その時に撮った写真の数々です。


新地町・釣師浜(つるしはま)
 ここは福島県の一番北の端にある町です。震源地の宮城県に近いので、津波で大きな被害を受けました。
 新地町に入ると、道路脇の地面が泥でおおわれています。津波で一面瓦礫におおわれた場所ですが、1年が過ぎ、打ち上げられた船や壊れた家などはほとんど撤去されていました。

20120424shinchi01
 家はすっかりなくなって、残ったのはコンクリートの基礎部分だけ


20120424shinchi02
 散乱するコンクリート片と傾いて残った電柱


 この新地の釣師浜には海水浴場があって、小さかった長男をつれて何度か遊びに来たことがありました。
 ところが、浜へ続く道路が途切れていて海辺に行けません。水のないところを通り、壊れた堤防を乗り越えてみました。振り向くと、以前はたくさんの家が建ち並んでいた場所が、変わり果てた景色になって広がっています。堤防の内側は、残った海水が溜まっていて水路のようでした。

20120424shinchi03_2
 途切れた道路の端に立つKさんと旦那
 

20120424shinchi04
 津波で壊れた堤防と水路のように溜まった海水。左手には住宅地が広がっていた。(2枚の写真を結合)


 コンクリートの堤防が壊れている……!! 自分の目が信じられませんでした。こんなに分厚いのに。こんなに頑丈そうなのに。あの日、多くの海辺の人たちが、同じ想いで壊れていく堤防を見ていたのだと思います。


20120424shinchi05
 浜へ下りる階段のポールが曲がっていた


20120424shinchi06
 金属製のポールがぐにゃり


20120424shinchi08
 東屋。固定式のテーブルがフェンスの横に転がっている


20120424shinchi07
 目を転じれば、あの頃と同じ海


 あそこで長男を遊ばせたっけ。小さな姉妹が二人、はしゃぎながら海へ駆けていくのを見たなぁ……。そんなことを思い出しながら、海を眺めました。本当に、今はこんなに穏やかに見える海なのに。


20120424shinchi09
 浜辺に一つだけ残った建物


20120424shinchi10
 近寄ってみると、窓も戸もすっかりなくなっている。2階の窓枠も曲がっている。


20120424shinchi11
 中をのぞくと設備が残っている


20120424shinchi12
 右側の窓からのぞくと、テーブルがひとつ


 部屋にぽつんと立てかけられたテーブルには、「昭和54年4月吉日 寄賜 第走号(?) 大戸浜 寺島シノブ」という文字が読めました。
 帰宅してから調べてみたところ、この建物は相馬双葉漁業組合の新地支所だそうです。さし網や底引き網の漁の他に、養殖や漁場の開発などにも力を入れてがんばっていたとのこと。残されていた設備も、そのためのものだったのかもしれません。関係者はどれほど悔しいことだろう……と思いました。


 さて、釣師浜を離れて南へ走り出すと、道路脇に現れたのは――

20120424gareki01
 瓦礫の山


 テレビで観る気仙沼や石巻ほどではないかもしれませんが、ここでも瓦礫が山積みになっていました。


20120424gareki02
 枯れ木の瓦礫の山


20120424gareki03
 プラスチック系の瓦礫の山


 瓦礫は木材、プラスチック、その他(可燃物が含まれた泥の山)に、綺麗に分類されていました。枯れ木は、津波になぎ倒された防風林なのだそうです。処分するにもきちんと分類しなくてはならないのですね。
 ただ、被災地の瓦礫処理は全国の自治体からなかなか受け入れてもらえません。放射線量が全然心配ないレベルの宮城県や岩手県でさえ拒否されてしまうなら、福島県内の瓦礫なんてどこからも引き受けてもらえないのでしょう。
 これから、これはどう処理されていくんだろう、と思いながら、瓦礫の山からも離れました――。

(以下、その2に続く)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2012年3月 | トップページ | 2012年5月 »