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2011年5月30日 (月)

SPEEDIの予測データ封印に考える

 昨夜、フジテレビ系列番組の「Mr.サンデー」で「封印された予測データ」という特集を見た。
 原発事故の際には、放射性物質の拡散を風向きや風の強さ、地形からいち早く予測して、避難の支援をするはずだった予測プログラムSPEEDI(スピーディ)が、原発の北西方向に拡散を予測していたにもかかわらず、その予測データが事故後10日近く公開されなかったのは何故か、ということの検証。
 SPEEDIのシミュレーションデータを何度も取りながら公開していなかった原発保安委員会、文科省、防衛省のそれぞれ代表に直接理由を聞いてみた、という内容だったが、要するに、事故発生時の情報連絡、指揮系統がしっかり作られていなかったから、ということのようだった。
 事故で拡散した放射性物質の量がわからない以上、予測は不確実でパニックが起きる可能性があったので、公開を見合わせた――という説明も、すでにされている。

 それを見ていた旦那が言った。
「要するに、原発事故が起きたときの対応のしかたが、まったく考えられていなかったってことだろう」
 確かに。
 事故で放射線量を測定する機器が故障する、という事態は、あらかじめ充分予測できること。
 そうなったときに、事故をどう判断するか。事故が起きた際にSPEEDIが出した予測データを、どう処理し、どういう対応に結びつけるか。そういう危機対応マニュアルが、まったく作られていなかった、ということなのだよね。

 では、何故そんな状況になっていたのか? 
  「原発は絶対安全。事故を起こすはずはない」という原発安全神話が、それを妨げたのだろう。
 事故を起こすわけがない原発に、事故発生時の対応マニュアルがあっては、絶対安全とは言えない。実際、原発に関しては何重にも安全策が講じられている。だから、事故のことは考えなくても大丈夫なんだ――と。
 「慢心」
 その一言だよね。本当に。

 日本政府は、慢心の下に、原子力政策を推し進めてきた。
 日本国民は、その危険性を聞かされながらも、「今の日本社会に電力は絶対必要だから」と、見て見ぬふりをしてきた。
 そのツケがまわってきたのが、今回のこの福島での原発事故。
 これから、放射性物質による被害と、その風評による被害は、ますます深刻になっていく。その影響は、福島県内だけには留まらない。日本中を巻き込む事態になっていく。
 日本人は本当に痛い授業料を支払うことになったと思う――。


 だけど、SPEEDIの予測データが、3月14日や15日の時点で公表されていたら、私たちはどうしたか?

 福島県伊達市にも、放射性物質の飛来は予想されていた。ただ、放射性物質の量は不明。だから、きっと「原発北西方向に放射性物質が流れていくと思われます。ただし、その影響については予測できません」と発表されたんだろう。その時に、私たちはどう行動しただろう?
 もちろん、避難できる人はしたはず。だけど、我が家では?

 義父は絶対にこの家を離れたがらなかったから、義母もきっと避難はしなかっただろう。震災の後片付けにも、非常に忙しい時期だった。旦那はここを離れたら仕事ができないし、地域の人たちに物資を販売する役目も担っていた。息子も精神的に衰弱状態で、あの時点でここを離れたら、いっそう悪化する危険があった。
 放射線量はあの時点でも測定が始まっていて、人体に即影響が出るレベルではないことはわかっていた。

 実際にそうなってみなければわからないことではあるけれど、我が家は、例え予測データが出ていたとしても、やっぱり避難はしなかったんじゃないかな……。そんな気はする。


 起きてしまったことを嘆いても、現実にはどうしようもない。
 もう二度と、こんなことが起きないように、しっかり検証して、可能な限り安全な対策を講じること。
 そのための「フクシマ」でなくてはならないのだと思う。

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2011年5月24日 (火)

震災の詩 in ふくしま

 数日前にツイッターで震災に関する短歌をいくつかつぶやきました。
 短歌や俳句は素人なのでお粗末な作品ですが、せっかくなのでここに残すことにしました。


一代で築き上げにし石倉の解体工事を義父が見上げる

 去る3月11日に襲った巨大地震で、私が住む福島県伊達市は震度6弱でした。ただ、我が家のあるあたりは地盤が弱かったのか、もっと激しく揺れて、石でできた強固な倉がいたるところで被害を受けました。我が家の石倉も2階部分に倒壊の危険が出てきたので、取り壊しをすることになりました。


瓦無き倉の屋根の端(は)子雀が鳴きつ探すよ「お宿はどこだ」 

 倉の屋根瓦の隙間は、スズメたちの巣作りに絶好の場所。それがすっかりなくなってしまった倉の周囲を、スズメたちが驚いたように飛び回ってました。中には、やっと飛べるようになったばかりの子スズメの姿も。


潮干狩りはまた出来ますか松川浦 へりおすの碑にも波は届きて

 福島県沿岸北部にある松川浦は、潮干狩りの名所として福島県民に愛されてきました。その浜を見下ろせる鵜の尾崎(うのおざき)には、1986年に事故で沈没した海洋調査船へりおすの慰霊碑があって、津波のしぶきはその岬まで届いたそうです。松川浦を襲った津波は高さ15メートル以上だったと言われています。


避難所の体育館で秋刀魚(さんま)焼く やっぱり秋刀魚 女川がんばれ

 津波で壊滅的被害を受けた女川の避難所で、特産のサンマを焼いて炊き出しをしている写真を見ました。女川は2年前に私たちも旅行で訪れた場所。「女川では毎年秋にサンマ祭りをするんですよ!」と笑顔で教えてくれた旅館の女将さんは、どうなさったでしょう。どうかご無事で……。


流されし学校廃校で再開す 校庭走れる子が羨ましい

 津波で校舎が全壊した小学校が、廃校になった山間の校舎を使って再開した、というニュースを見ました。何もない中での再スタートですが、外をランニングしている子どもたちの姿に、思わず「いいなぁ……」とつぶやいてしまいました。福島県のほとんどの学校では、放射線の影響を心配して、屋外での活動を制限しています。子どもたちは校庭で遊ぶことも体育をすることもできないのです。


復興の槌音響く夏空にクレーンの腕黒々と高し

 工事中の我が家だけでなく、街中のいたるところから金槌の音が聞こえてきます。大きなクレーンも動き回っています。復興の象徴です。


原発の職員の子を知っている あの子のためにもどうぞご無事で

 福島県人、東電や原発には非常に怒っていますが、原発で働いている職員まで恨む人はごくわずかです。彼らは今日も危険な場所で、事故終息のために必死に働いてくれているのです。


電気ガス水道通信ありがとう この感謝の念忘れたくない

 あたりまえのことが、あたりまえではなかった。それがあたりまえにあること自体が、ありがたいことだった。そんなことを思い知らされた震災でした。この気持ちをいつまでも持ち続けたいものです。


震災で吾の価値観変化する 真に大事なものは少ない

 自分にとって本当に大切なものはなにか、と震災は私に突きつけてきました。その視点で整理し直してみたら、後に残ったものはほんのわずかでした。


不要品捨てて身軽になろうとする吾に皆言う「断舎利(だんしゃり)ですね」と

 こんなふうに本当に大切なものだけを残して生活を整理することが、「断舎利」と呼ばれてブームになっていたようです。ブームに乗ったつもりはなかったんですけれどね。


隣人と手をとりあって生き延びる 人の絆(きずな)は震災よりも強し

 人と人とが助け合うことが、こんなにも頼もしいものなのか、こんなにすごい力になるものなのか、と感心し続けた2カ月半でした。人間というのは助け合って生きるように生まれついているようです。


古里はカタカナ表記になったけど吾は呼びたい「うつくしまふくしま」

 福島は自然豊かな美しい場所。穏やかで親切な人たちが大勢住んでいる場所。フクシマとカタカナで書かれるようになってから、日本で一番有名な県になってしまったけれど、そこに住む私たちには、やっぱり昔と変わらない「ふくしま」なんです。


Hanamiyama201106
ふくしまの桃源郷「花見山」から福島市内を望む

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