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2011年3月31日 (木)

大震災14日目

3月24日 木曜日 天気:晴れ

 震災14日目。明日で2週間が過ぎるけれど、いまだに地震の名称は統一されていないような気がする。気象庁では東北地方太平洋沖地震と命名したはずだけれど、新聞では東日本大震災と言っているし、NHKでは東北関東大震災と言っている。
 余震もまだおさまっていない。昨夜は久しぶりで一度も余震で目を覚まさずに眠ったけれど、今朝の九時頃には茨城県で、夕方5時半前には岩手県沖で、それぞれ震度5弱の地震があった。どちらも突き上げるような初期微動で、震源地の揺れの強さを感じさせていた。そして、強い余震が来るたびに、家がますます傷んでいくような気がする。壁のひび割れは確実に大きくなっているし、2階の昇平のベッド脇の壁は、とうとう表面の壁土が上の方ではがれて落ちてしまった。

 午後、地震共済の担当者が3人来て、家の被害状況を確かめていった。壁という壁がひび割れたり、隙間ができたり、歪んだりしているして、開かなくなっている戸もあちこちにあるので、非常に難しい顔をしていた。
 担当の方たちの話によると、この町内では、私たちが住んでいるあたりが一番被害状況がひどいらしい。震源地の宮城に近いからか、地盤の関係か。確かに、周囲でも、ほとんどの家が屋根や壁をやられているし、石塀や石倉も大きく崩れている。
 調査はしてもらったものの、被害を受けた家屋の件数があまりにも多いので、結果が出るまでにはしばらく時間がかかる、と言い残して、担当者たちはまた別の家の調査に向かっていかれた。ご苦労様です。

 部屋の片付けは、私の担当の場所はとうとう終わった。
 『とーます!』の顧問の中田先生から、災害ニュースをテレビ映像で繰り返し見ることが、発達障害児に良くない影響を与えることを注意するメールが届いたので、メンバーに転送がてら、近況を尋ねて連絡を取り合った。
 原発から避難している人も多いけれど、4月には集まれる人で集まって、支部の定例会を開く予定。とにかく皆で集まること、顔を合わせて話すこと、そのことでお母さんがまず元気になることが大事なんだと思う。お母さんが元気なら、子どもも元気。これが私たちのモットーだから。

 今日は旦那が震災後初めて公休を取れたので、午前中4号線に開いているガソリンスタンドを探して、私の軽乗用車を満タンにしてきた。これで当分は安心だし、来週にはもっと状況が良くなるだろうと思う。

 物資は少しずつ入荷し始めている。昇平は自転車でスーパーまで行って、自分のおやつやじいちゃんの菓子パン等を買ってきてくれた。それがストレス発散になったようで、今夜はかなり落ち着いている。

 水道水から放射性物質が検出、。農作物の出荷帰省、福島県への風評被害……いやになる。本当に、いやになる。

 地震初日の日記を、ブログ「そっと、ひとりごと」に公開した。改めて大変な経験をしたのだと思ったし、家族が全員怪我もなくて、本当によかったと思った。

朝食:ご飯、アジの干物、ニラのおひたし、ニラ玉汁、野菜サラダ

昼食:米粉うどん、鶏モモ照り焼き、ほうれん草のおひたし

夕食:ご飯、ホッケの干物、土佐揚げ(豆腐のおかか揚げ)、春菊とタマネギのかき揚げ、白菜味噌汁

 魚は干物類だけは手に入る。ボリューム不足は、揚げものにして補っている。


 

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2011年3月30日 (水)

大震災13日目

3月23日 水曜日 天気:晴れ

 震災13日目。
 今日はコスメボックスや台所の引き出し、寝る部屋(兄ちゃんの部屋)のマンガの整理などをした。これで家の中の整理はほぼ完了。明日は昇平の予備のパソコンを出してやる予定。大丈夫かと思っていたのだけれど、先に電源を入れてみたら異音がしたので。修理しなくてはならないだろうな。

 家の中は見違えるように綺麗になった。これで2階に安心して寝られるようになれば、完全に元通りなのだけれど、相変わらず余震が多くて、とても2階には寝ていられない。兄ちゃんの部屋は上に2階がのっていないし、周囲に倒れてくるような家具もほとんどないのだけれど、それでも寝るときにはまだ洋服を着たままでいる。昨夜も夜更けに大きめの余震があり、朝方にはいわき市南部で直下型の余震があった。いわき市の方は震度5強。しかもたてつづけに揺れて、こちらにも強く伝わってきた。本当に、なかなか落ち着くことができない。 

 原発の方は、電源が戻って、電気によるコントロールが可能になりそうだという。早く! 早くこちらも落ち着いて!

 今朝、2階の片付けをしながらラジオを聴いていたら、「天空の城ラピュタ」の主題歌「君をのせて」が流れてきた。私のお気に入りで、地震が起きる前に本当に何度も聴いていた曲。それを聴くうちに涙が出てきた。震災の後、悲しかったりつらかったり嬉しかったりするたびに、何度も涙ぐんできたけれど、まともに涙を流したのは初めてのことだった。
 津波に襲われた地域では、すべてをなくした人たちが大勢いる。私には家も家族もあるけれど、それでも、私も確かに何かを失った。それは何だろう、と考えて、「安全」であり「安心」であり「平和」なんだと思い当たった。無意識のうちにあると信じていた「安全」が、虚構だったと思い知らされた日。私たちはなんて脆い世界の上に住んでいるのだろう。でも、だからこそ、この命が愛しい。

 食料、特にパン、牛乳、納豆などの日配品が手に入りにくい。お菓子も売り場に少なくなってきたけれど、それだけに、手元にある食べ物を大切に食べるようになった。無駄食いすることも、まだ食べられるものを捨てることも、少なくなっている。これが本当の姿なんじゃないかと思ったりもする。
 近所の農家の人が、新鮮なニラをどっさり持ってきてくれたので、さっそくニラ玉汁とニラのおひたしにした。そういうことの幸せも、本当に強く感じる。

 夜、町内に住む旦那の義姉から、ソースとサラダ油を買って届けてほしいと電話があった。ガソリンがなくて、車で買い物に行けないから、と。このあたりは交通過疎地だから、自家用車が使えなければ、毎日の買い物にさえ不自由するようになる。旦那はスーパー勤務だから、さっそく職場で注文の品を買って、ついでにニラも持って届けに行った。 

朝食:ご飯(旦那と昇平はカレーライス)、目玉焼き、イワシの缶詰、キャベツの味噌汁

昼食:ホットケーキ、スライスチーズ、サンマの缶詰

夕食:ご飯、アジの干物、鶏モモの照り焼き、砂肝塩焼き、野菜炒め、ニラ玉汁、野菜サラダ、冷や奴、ニラのおひたし

 朝食、昼食は簡単でも、夕食だけはできるだけバランス良い献立にしようと心がけている。この状況の中で、栄養をしっかりとっておくのは、とても大切なことだと思うから。

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大震災12日目

3月22日 月曜日 天気:晴れ→曇り→夜に雨

 震災後12日目。

 朝7時に、ガソリンスタンドに泊まり込みで並んだ旦那と交代して、スタンドの開店を待った。旦那は、私が持っていったおにぎりとお茶を朝食にして、私の車で出勤。その時点でスタンドの前から福島市方向へ1.2kmほど車が並んでいた。たぶん100台以上だろう。早朝にスタンドの職員が整理券を配ったが、旦那の車は20番目だった。
 いつもより早く、7時半過ぎには開店。ひとり2千円分ずつで、携行缶への給油はダメ。2千円で13リットルほど入れられた。燃料ゲージが1/3ちょっと上まで来て、一安心。
 夜のうちに並んで、そのまま車を置いて家に帰っている人も多かったが、開店が早かったし、整理券をもらえなくて給油できなかった人もいただろう。車中泊した旦那は、狭くて大変だったようだが、その甲斐はあった。

 今日は、仮に突っ込んでおいた机の引き出しの中身の整理や、台所の食器の洗い直し。昇平は10時半に起床したが、食器を拭くのを手伝ってくれた。家の中はほぼ片付き、あとはお義母さんの管轄の場所だけになったが、お義父さんが何かというとお義母さんをあてにするので、片づけの時間がなかなかとれずにいる。今日は、近所の親戚が、取り壊した建物の屋根瓦をくれると言うので、それをもらいに行ったが、瓦を一輪車に乗せるのは全部お義母さんの役目だったようで、「お義父さんは全然役に立たない!」と言って怒っていた。

朝食:ご飯、おにぎり、サバ小切れ塩焼き、きのこ汁、カボチャ煮物

昼食:スープスパゲティ(タマネギ・キャベツ・ハム・ほうれん草入り)、義父=味噌焼きおにぎり

夕食:マイタケ入りカレーライス、野菜サラダ、きのこ汁、チキンナゲット、義父母=冷凍グラタン、シラス干し

 きのこ汁はたっぷり作ったので、今日の夕飯まで間に合った。食材が少なくなっているので、それをどうやりくりして、みんなをお腹いっぱいにするかで頭を悩ませる。品数が多いように見えるが、私たちと高齢の義父母とでは食べられるものが違っていて、それぞれにおかずを準備するため。義父母用の食材が手に入りにくいのが、ちょっと心配。 

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大震災11日目

3月21日 月曜日 天気:曇り 午後ほんの少し雨

 震災後11日目。
 家の中はかなり片付いた。2階の押し入れに借り起きした本や、タンスの引き出しの中身も整理し直した。
 壁に掛けた状差しの中身を整理しようと、手紙の束を取りだしたら、中からザーッと砂が出てきた。地震の時に崩れた壁土が中に入ったのね。
 午後から台所の食器の洗い直し。まだ全部終わっていないから、明日もやらなくては。
 お義母さんは座敷の片づけに取りかかった。私たちが寝るために兄ちゃんの部屋から座敷に出した整理箱があったので、それは私が見直して中身を処分、箱はお義母さんの荷物の整理に使ってもらうことにした。

 今日は彼岸の中日。昼食後に昇平と墓参りに行ったが、近所のスーパーで花束が1把しか買えなかったので、それは仏壇に上げて、お墓には、震災でひっくり返ってしおれかけていたストックと造花の束を持っていった。こんな時だから、仏様も許してくださると思う。
 墓地では、墓石の大半が倒れたり、壊れたり、ずれたりして、惨憺たる光景だった。我が家の墓も墓石が後ろにひっくり返ってしまっていた。元に戻したくても、重すぎて私たちにはどうしようもない。花と線香をあげ、みんなを守ってくれてありがとうございました、と手を合わせてきた。 

 私たちは墓地まで自転車で行ったのだけれど、途中の道路は驚くほど静かだった。みんなガソリンがないから、車がほとんど走っていないのだ。畑を耕すトラクターの音も聞こえない。聞こえてくるのは鳥の声だけ。昔々、車がなかった時代はこんなふうだったのかな、とふと思った。
 明日、近所のガソリンスタンドでガソリンが販売される、という情報が入ってきて、旦那が並びに行った。夕食後にすぐ行ったのだけれど、それでも十何番目だったらしい。布団や毛布を持ち込んで、今夜は車中泊。明朝私が交代して開店を待つ予定。 

 近所では、やはり石倉の被害がひどい。近所のスーパーでは、母屋の横にあった倉の2階が倒壊する危険がある、というので、2階部分を取り払ってしまったらしい。我が家でもそうなるだろう。石塀もかなりやられているが、地震の揺れに方向性があったのか、特定の方向の塀の壊れ方がひどいのが目立つ。
 古い家の被害は大きく、新しい家の被害は少ない。中には、まったくどこもやられていないように見える家もある。これが耐震構造というものなのかな。

 今は、福島への風評被害が一番怖い。周辺地域もだけれど、福島県人がパニックになって、福島県から逃げ出しているから、復興がマヒしている。特に浜通りがひどい。なんとかして!! と言いたい。
 私にできることはないか、と考え、ニコッとタウンに風評被害についてのブログを書いてみた。

朝食:ご飯、納豆、もやしとピーマンのソテー、キャベツと油揚げの味噌汁

昼食:おはぎ、ゴマ塩おにぎり、フレンチトースト、イチゴ

夕食:塩サバ、きのこ汁、麻婆豆腐、野菜サラダ、カボチャの煮物 

 おはぎは近所のスーパーで売っていたもの。ただ数が少ないので、足りない分はおにぎりやフレンチトーストで補った。大切にとって置いた食パンは、これで食べきってしまった。

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大震災10日目

3月20日 日曜日 天気:晴れのち曇り

 震災後10日目。
 家の中は2階の片付けが終わり、台所の食器戸棚も今日で片づけ終了。明日、食器の洗い直しをしなくてはならないけれど。1階の台所の食器がほとんど壊れなかったのは、不幸中の幸いだった。
 薬箱の中身も整理した。明日は米びつラックの棚の中身の整理かな……。これを機会に、あっちもこっちも徹底的に片づけている。いずれ家を建て替えるなら、今のうちから荷物を減らしておくのが得策。

 今日は少し長めにネットをして、風評被害へのコメントを書き込んだ。今日、私はとても疲れているけれど、たぶんこれは風評被害のせい。肉体的というより、精神的に疲れてしまっている。放射能に汚染されているから、と福島県のあらゆる物や人が拒絶され、差別されている現実。本当にとても悲しくて淋しい。復興への気力が失われていく。

 行列にはなるけれど、スーパーに商品が入り始めた。買い出しはお義母さんの役目。いろいろなものを見つけて買ってきてくれた。
 私は家の中を片づける役目。今日は土や砂で汚れた敷物も洗濯した。
 お義父さんは、午前中は屋根に上がってブルーシートを手直しし、午後は庭の畑を耕していた。明日はジャガイモの種芋を播くらしい。
 昇平は出番がなくて、ずっとゲームやパソコンをしていた。手伝ってもらいたくても、仕事が細かすぎて無理なのだよね。ただ、じいちゃんに頼まれて、屋根にはしごをかける手伝いはしていた。

朝食:ごはん、かき揚げ、子持ちししゃも、ツナ缶とシイタケとジャガイモの煮物、アサリの味噌汁

昼食:フランスパンのチーズトースト、煮物、コロッケ、カップスープ

夕食:ご飯、牡蠣フライ、ポークチャップ、ほうれん草おひたし、春菊ゴマ和え、大根の味噌汁

 お義母さんがコロッケやフライ、野菜などを買ってきてくれたので、今日の食事は豪華だった。

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2011年3月29日 (火)

大震災9日目

3月19日 土曜日 天気:晴れ 日中暖かい

 未明から明け方にかけて、二、三度余震が来て、そのたびに目が覚めた。そんなときには、携帯の地震情報がとても便利。
 5:50 携帯のアラームで起床。メロディはベートーベンの第九交響曲。寝床の中で携帯のネットニュースを見てから起床、台所に立つ。食料品が少なくなってきたので、朝食や昼食は簡単になってきた。

 午前中、パソコンをモデムに直接つないでネットにつないでみた。あれこれやって、なんとか開通。万歳!
 メールチェックをしたら681通たまっていた。その9割は迷惑メールだったけれど、震災後に届いた内容がいつも通りの売春系や薬物系のメールなのを見ると、プログラムで自動的に送りだしているものだとわかっていても、なんとも言えない気分になる。このメールを送り出す人たちと、被災者である私たちとの間の途絶感とでも言うのだろうか。

 原発事故にアレルギー反応を起こして、福島への風評被害を広げている人たちや、福島から来たというだけで差別的な対応をする人たちにも、同じことを感じる。首都圏の電車の中で、「福島から避難してる人が大勢いるんですって。大丈夫なのかしら。首に『福島から来ました』って札を下げておいて欲しいわよね」と会話している人たちがいたという話。物資も水もなくて本当に困っている被災地のいわきに、「放射能で汚染されているから」と運送会社が運送を断ってくるという話。そんな話を聞くたびに、すごく淋しくなるし、すごく悲しくなる。
 福島県は、原発の周辺以外は、そんなに怖い状況じゃないんですよ。それでも怖くて逃げる人はいるけれど、だからといって、その人たちを差別するような態度はやめて。福島から離れている場所の人ほど、アレルギー反応がひどいという気がしている。

 だけど、その一方で、被災地の私たちを思って、心配したり募金したり、何か少しでも役に立てれば、と動いてくれる人たちもいて、そういう人々の存在が私たちをとても励ましてくれる。現地でがんばっているのは私たちだけれど、それを支えてくれる人たちがたくさんいて、その人たちとつながっているのだと思うと、本当に勇気づけられる。
 今回、私がしみじみ感じたのは、人と人とがつながる力。家族がいたから、みんながいたから、私はこうして強く生きていられるし、家庭も少しずつ正常に戻ってきている。想ってくれる心。助けようとする気持ち。そうやって助け合うのが私たち人間なんだな、とつくづく思う。

 午前中は、2階のカップボードの中身を洗って戻し、倉の2階で倒れているタンスを起こすのを手伝った。壁全体にひびが入って、強い余震が来ると倒壊するかもしれない、と言われている倉なので、揺れを感じるたびに急いで避難しながらの作業。
 昼食後、私たちが寝ている兄ちゃんの部屋でまた雨漏り。2日前に降った雪が北側の屋根に残っていて、この暖かさに溶け出して部屋にしたたってきたのだ。あわててトタン屋さんに来てもらったところ、屋根をおおっていたブルーシートが古くて防水性がなくなっていたのだと判明。ちょうどお義母さんが自転車で買い物に出ていたので、急いで携帯で連絡をして、ブルーシートを探してもらうことになった。どの家でも屋根をやられているので、ブルーシートは品薄状態だけれど、なんとか2枚見つけて買ってきてもらえた。明日は午後から雨の予報。間に合った!

 その後は、ネットで生存報告をしてから、台所の戸棚の上段の整理。保存容器等を整理したらスッキリ。ついでに、ドアが外れた2階の入口に、カーテン代わりの布を画鋲で留めたら居心地良くなった。

 夜、久々にパソコンから掲示板に近況報告を書き込みをした。ニコッとタウンでは、私の無事を知った友だちが大勢コメントをしてくれていた。ニコッとタウンには全然アクセスできなかったからね。とても嬉しかった。

 兄ちゃんは無事に埼玉のアパートへ帰り着いた。アパートでは時計とCDが落ちていただけだった、とメールをくれた。良かった。

 『とーます!』で一番安否が心配だった相馬市のMさんとも、やっと連絡がついた。ご自宅は津波の難を逃れたものの、原発が心配で仙台の親戚の家へ身を寄せているという。昇平と同じような障害を持っているお子さんだけに、慣れない環境でおとなしくさせているのが大変です、と言っていた。
 本当に、一日も早く原発が落ち着いてくれますように。早く私たちが元の落ち着いた生活に戻れますように。

朝食:ご飯、ニラとシイタケの味噌汁、目玉焼き、チキンナゲット

昼食:義父=カップ麺、義母=ご飯とシラス干し、私と昇平=フランスパンのピザトースト風+牛乳(量は少なめ)

夕食:ご飯、タマネギとシラス干しのかき揚げ、白菜と麩の炒め煮、肉団子、サバまたは塩マス小切れの焼き魚、アサリの味噌汁

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大震災8日目

3月18日 金曜日 天気:晴れ

 大震災からちょうど1週間がたった。
 2階はほぼ片付き、今夜は2階の西の部屋のコタツで、この日記を書いている。部屋の入口の戸は壊れて外れてしまったけれど、自分たちの部屋はやっぱり落ち着く。明日、割れずに残ったカップ類をカップボードに戻したら、2階の片付けは完全に終了する予定。

 今日やったこと。

・洋服ダンスに衣類を戻す。(飛び出して汚れてしまった衣類は後日洗濯)
・窓枠と桟の掃除。
・階段~1階の廊下~玄関・台所の掃除。

 掃除をしていると、雑巾があっという間に真っ黒になる。そうだよね。震災後1週間、ずっと靴をはいたままで家の中を(部屋の中まで)歩き回っていたのだもの。

 途中、2時半過ぎに庭に出て家を見た。1週間前の14時46分に、私はその場所から揺すぶられる家を見ていた。割れて落ちる瓦も、ひび割れていく壁も、外れて落ちる網戸も、壊れていく家の中も……ずっと、そこから見ていた。家の中から助けを求める昇平の悲鳴も聞いていた。
 よく晴れた今日の空の下で、我が家は傷つきながらも、ちゃんと建っていた。家族は誰ひとり怪我することもなく、一度も飢えることもなく、具合を悪くすることもなく、こうしてみんな元気でいる。ありがたいなぁ、と心から思った。家はいずれ立て替えになるかもしれないけれど、皆がこうして元気でいるのだから、これ以上望んだら、きっと罰が当たるだろう。

 昨夜から少しずつ出るようになっていた水道が、午後からまともに使えるようになった。壊れたと思っていた洗濯機も、水が出るようになったら、ちゃんと動いた。よかった、これで明日から洗濯ができる。
 お風呂も沸かして入った。一週間ぶりのお風呂は、本当に気持ちが良かった!

 兄ちゃんはバスで福島駅前まで出て、高速バスを乗り換えて郡山へ。もう少しで高速バスの席がなくなるところだったらしい。ぎりぎりセーフ。今日は郡山の私の妹宅に泊まって、明日、従兄弟と一緒に埼玉へ戻っていく。バイトもあったし、アパートや大学も心配だったのに、家族を助けてよく働いてくれた。本当にお疲れさま、兄ちゃん。君がいてくれて、とても心強かったよ。

朝食:ご飯、カツと仙台あぶら麩とタマネギの卵とじ、白菜の味噌汁、漬け物

昼食:すいとん粉のみたらし団子(義母が作ってくれた)、魚缶、お茶

おやつ:ホットケーキミックスで作った揚げドーナッツ

夕食:ご飯、焼き魚(塩サバまたは塩銀鮭)、ハム入り野菜炒め、野菜サラダ、大根とシイタケの味噌汁

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大震災7日目

3月17日 木曜日 天気:雪のち晴れ(風強し)

 今朝は6時起床。朝食の支度をして旦那を送り出したが、旦那は途中の道路が大渋滞して、あやうく職場に遅れるところだった。ガソリンスタンドの給油待ちの車が、昨夜のうちから長い列を作っていたせい。前の晩から並んでいたらしいが、緊急車両やトラックも通れなくなっていて、トラックの運転手が怒っていた、とは旦那の話。みんなが望んでいる物資を運ぶトラックだったのかもしれないのにね……。

 原発事故のために、原発がある相双地区だけでなく、福島県全体から避難する人が後を絶たないという。それはまだ理解できるのだけれど、首都圏をはじめとする関東圏でもパニックが起きて、食品やガソリンの買いだめに走っているというニュースを聞いて、愕然としてしまう。こちらよりよほど安全な場所にいるはずなのに、どうしてそんなことをするの? 助け合おう、援助の手を差し伸べよう、と言っていたはずなのに、自分たちに少しでも被害が及びそうだとわかると、とたんに保身のための行動に走るの? 直接放射能の危険がある場所で、仕事や家庭、年老いた家族などのために動くことができずにいる被災者は大勢いるというのに。
 放射能が怖いので、福島県のいわき方面へ物資を運ばなくなる風評被害も起きてきているという。何故? 環境放射能の測定値は1時間ごとに発表されているけれど、いわき市の濃度は、私たちがいる伊達市や隣の福島市の数分の一の低さだよ? それなのに、どうして? 津波の被害が本当にひどかった地域だというのに。

 福島県はがんばっているよ。宮城県も岩手県もがんばっているよ。自分たち自身が被災者で、不自由な生活を強いられ、くたくたへとへとになりながらも、他の被災者を思いやり、「ありがとう」「体に気をつけてね」「がんばろうね」と声をかけ合って、助け合い、励まし合ってがんばっているよ。
 安全なはずの場所で、情報に踊らされてパニックになっている方々。何か変ではないですか? 何かおかしいとは思いませんか? ――人間として、なすべきことはなんでしょう?

 震災後ずっと働き通しで、肉体的にずいぶん疲れてきたけれど、今日のこのニュースには心底悲しくなって、今まで感じたこともないほどの疲労感を覚えてしまった。


 それでも、私は生活のために片付けをしなくてはならない。2階のモノを徹底的に減らしたので、2つの部屋が見違えるように綺麗になった。本当はもっと減らしたいところだけれど、それはおいおいと。

 兄ちゃんは昇平に手伝ってもらって、外の水道から浴槽へ半分ほど水を貯めた。ボイラーで風呂を沸かすことはできないけれど、ガスコンロでお湯を沸かして、それでどうにかシャンプー。昼食には手作りのアップルフィリングとクレープを作ってくれた。美味♪
 その後、兄ちゃんはじいちゃんと一緒に1階南側の屋根に上がり、ブルーシートのかけ直し。(ばあちゃんはその手伝い) それ以外にも、地震で動いた茶の間の茶箪笥(とても重い)を元の場所に戻してくれたり、地震で壊れてしまった大型本棚の棚(すごく重い)を戻して本をまとめてくれたり。とにかく力仕事を一手に引き受けてがんばってくれた。

 昇平は綺麗になった部屋の机で、久しぶりにお絵かき。その後は、またゴミ袋やつぶした段ボール箱を何度も外へ運んでくれた。

 旦那は食料品や水を買って帰ってきた。旦那はスーパー勤務だから、買い出しが頼めて本当に助かる。お客さま優先なので、数の少ない商品は手に入らないけれど、今日はキャベツやレタス、キュウリ、ホッケの干物などの生鮮品が買えて、とてもほっとした。これで食材不足が少し改善された。

 夜になって水道が復旧したが、すごい濁り水だった。しばらく流してから浴槽に貯めたが、そのうちにまた停まってしまった。本格復旧にはもう少しかかるのだろうか。でも、水洗トイレのための水がほとんどなくなっていたので、水が出て助かった。

 電気は来たが、エアステーションのACアダプターが破損していて、ネットが使えない。モデムに直接つないでみたが、やはりだめ。明日、掲示板で弟に聞いてみることにしよう。

朝食:ご飯、ラジウム卵、鮭フレーク、ワカメの味噌汁

昼食:アップルクレープ、チーズトースト、コーヒー (兄ちゃんが作ってくれた)

夕食:とり釜飯、トンカツ、ワカメ入りサラダ、麻婆豆腐または冷や奴、ニラの味噌汁

 兄ちゃんは、明日から埼玉方面への高速バスが再開するとわかって、大学のアパートに戻ることになった。まず明日は郡山まで行き、同じく関東の大学へ行っている従兄弟のSくんと一緒に、明後日郡山から高速バスに乗る予定。

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2011年3月27日 (日)

大震災6日目

3月16日 水曜日 天気:曇り時々雨→みぞれ→雪

 未明に強い地震。静岡で震度6強だったらしい。両脇にタンスがある部屋で寝ているので、それ以上寝ていられなくなって、5時15分には起きだし、6時に起きてきた旦那に朝食を出して送りだしてから、2階に上がって片付けを始めた。
 ツイッターのアカウントとパスワードを書き留めたノートを発見して、ようやく携帯からツイッターにも入れるようになった。アカウントを覚え違いしていたのだった。

 午前中、職人さんが二人、屋根にブルーシートを掛けに来た。午前中いっぱい作業してくれたが、雨が降り出して屋根瓦が滑るようになったので、続きはまた明日になった。

 福島第一原発では今日も白煙の上がる爆発が続いている。非常に心配な状況であるけれど、ラジオ福島で専門家が「このレベルでは直接人体への健康被害はない」と明言してくれ、ラジオで繰り返しそれを流してくれるので、かなり安心することができた。

 一日中2階の片づけ。大きな片付けはだいたい終わって、細かい整理に入った。
 今回、地震の被害がひどかったのは、モノの量が多かったから。この家は天井が弱くて、転倒防止の突っ張り棒を立てることもできないので、とにかくモノを減らすことにした。子どもの思い出の品もずいぶん捨てた。……いいんだ。今を生きている子どもたちが、そばにいるんだから。

 忙しくて昼食の支度をする時間がなかったので、兄ちゃんに頼んだら、めちゃくちゃ美味しいお昼を作ってくれて感激! 「もう自分にできることがあまりないようだから、明日もお昼を作ろうかな」と兄ちゃんが言う。実は、兄ちゃんはかなり料理がうまいのだ。期待しておこう。
 昇平は私が言わなくても自主的にゴミ袋を外へ運んだり、水の入った重いバケツを家まで運んだり、雪が降る中、ペットボトルに水を汲んできてくれたり。子どもたちは本当に、文句ひとつ言わずに手伝ってくれている。

 とりあえずひどい雨漏りはしなくなったようなので、布団をまた兄ちゃんの部屋に戻した。余震でタンスが倒れるかもしれない部屋では、とても安眠できないから。狭い部屋に全員がひしめいているのだけれど、これが楽しいと感じられる。

朝食:五目ご飯、温サバ缶、ワカメ味噌汁

昼食:ホットケーキ、パスタ入りトマトスープ(兄ちゃんが作ってくれた。すごく美味!)

夕食:親子丼、漬け物、キュウリ・ワカメ・ツナサラダ、カボチャ煮物、白菜味噌汁

 ガソリンが欠乏してきたので、新聞も届かなくなるかもしれないという。大震災の翌朝には、バイクが走り回って配達してくれた新聞。その職業意識に本当に感心したのだけれど、それもいよいよ欠配するのだろうか。
 旦那のスーパーでは水が出るようになり、明日からようやくオープンするという。当面は短時間の営業。

 夕方、我が家の電話が復旧した。これでまたひとつ、ライフラインが回復した。


【募金のお願い】
 昇平がこの春から利用するはずだったフリースクールが被災して、再開の見通しが立っていません。
 どうか、募金へのご協力をお願いいたします。(m_m)
   ↓
 http://homepage3.nifty.com/asakuratown/bokin-onegai.html

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2011年3月26日 (土)

大震災5日目

3月15日 火曜日  天気:曇りのち雨

 義母の親戚筋に当たる建築屋の若旦那が、我が家の被害診断に来てくれた。その結果、上に2階がのっていない部屋>2階の部屋>階下の部屋 の順で安全だと言われた。特に、上に2階がある部屋(洋間と座敷)では寝ないほうが良いとのこと。強い余震が来たときに危険だから、と。
 修理不可能というわけではないけれど、修理費がかなりかさむだろうし、築45年の家で、あと10年もすれば建て直しになることを考えると、今回思い切って新築した方が経済的だろう、とも言われた。耐震基準が厳しくなる前に建てられた家だから被害が大きかったのだろう、とも言われた。

 けれども、被害があった家は非常に多く、中には一刻も早く修理・解体しなくては危険な家屋や倉もある。できるだけ早く、応急修理に来るとは言っていたが、いつになるのかはわからない。
 私たちは1階の、上に部屋がない兄ちゃんの部屋で寝ているから心配ないし、義母もずっと茶の間で寝ているから安心なのだけれど、義父だけが「自分のベッドでないと寝られない」と言い張って、昨夜から一人で洋間に寝ている。一番危険だと言われている階下の部屋。家族がどんなに説得しても無駄。心配だけれど、どうしようもなくて、そのまま洋間に寝させることにした。

 さらに、夕方から雨が降り出すという予報。今日中には屋根の職人さんが来られないとわかって、義父が焦りだし、兄ちゃんと一緒にまた屋根に上がって、瓦の壊れた屋根にブルーシートをかける作業を始めた。文句も言わずにじいちゃんを手伝っていた兄ちゃんは偉い。
 屋根の損傷もひどくて、あちこちの瓦が壊れて落ちている。昨日、義母がブルーシートを何枚か手に入れてきてくれたので、家にあったブルーシートとも合わせて、どうにか間に合った。

 私は西の部屋の片づけを開始。細かい整理が多くて私でなければできないので、昇平には階下でゲームをしていてもらって、ゴミ袋を運ぶときだけ手伝ってもらった。捨てる捨てる、どんどん捨てる……! 疲れたけれど、だいぶすっきりしてきた。

 原発はとても心配ではあるけれど、私たちには何もすることができない。早く落ち着いてくれ、おさまってくれと祈るばかり。いろいろ考えれば不安になってくるけれど、ラジオ福島のアナウンサーさんたちが福島県の被災者を元気づけてくれるし、たくさんの情報やメールも読み上げられるので、それを聴いていると安心してくる。

 夜はすることがないので、兄ちゃんの部屋に親子4人で集まり、兄ちゃんと旦那は久しぶりで囲碁をやり、昇平は本を眺めているうちに眠り、私はこうして日記を書いている。これから携帯で星空掲示板にアクセスして、今日の報告をする予定。
 状況としては大変だし不安なはずなのに、こんなふうに家族水入らずで過ごしていると、なんだか楽しいとさえ感じてくる。こういう当たり前の生活っていいな、と本当に思う。

朝食:ご飯、ラジウム卵、鮭フレーク、ハムステーキ、白菜味噌汁

昼食:ピザ餅(チーズ、ハム、ピーマンをトッピング)

夕食:チャーハン(兄ちゃんが作ってくれた)、ポテトサラダ、生野菜、鶏の唐揚げ、大根味噌汁


 と、ここまで書いたところで、雨が降り出した。雨音がいやに大きいな、天井裏から聞こえてくるようだ? と思っていたら、雨漏りが始まった! ブルーシートをかけておいたのに、雨を防げなかったらしい。
 大あわてで布団を別の部屋に運び、雨漏りしてくるところへバケツをいくつも置き、兄ちゃんはパイプベッド下に敷いた旦那の布団で寝ることにして、私たちは別室で寝た。タンスに囲まれた部屋なので、余震のたびに倒れてくるんじゃないかと思って跳ね起きた。雨漏りは心配だけれど、雨が上がったらまた兄ちゃんの部屋で寝ようと決心した。
 

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大震災4日目

3月14日 月曜日  天気:晴れ

 早朝に電気が回復した。まだ薄暗い家の中に灯りが付いたとき、義母たちと歓声を上げてしまった。電気は偉大だ!

 引き続き2階の片付けをした。捨てる捨てる、どんどん捨てる。いっぱいになったゴミ袋は昇平が外へ運ぶ。おかげで東の部屋の片付けはほぼ終わった。明日は西の部屋の片づけに取りかかる予定。

 こうやって働いていると、子どもたちから「お母さんは強いね」と言われる。確かにそう見えるかもしれない。でも、それは守るべき家族がいるから。主婦がおたおたしていたら、家族全員が不安になるし、食事を含めたあらゆることが滞ってしまうから。だから、「お母さんは強いね」と言われるたびに、「キミたちがいるから、お母さんは強いんだよ」と答えている。

 兄ちゃんは義父と一緒に倉の屋根に上がり、壊れた屋根瓦の片付けをしていたが、余震が続くし風も出てきたので、兄ちゃんは午後からリタイヤ。義父だけが一人で作業を続けていた。……義父は現役時代に高所作業をしていた人なので、80歳になった今でも高い場所に平気で上がっていく。身体機能も運動神経も昔とは違っているのだからもう危ない、上がるな、と言っても頑として聞き入れない。義母が、はらはらしながら、ずっと下から見守っていた。

 我が家の庭にはポンプで地下水を汲み上げる水道があるので、電気が来たおかげで水を使えるようになり、生活の質がぐんと良くなった。まだ町の水道は断水中なので、近所の人にも声をかけて自由に使ってもらった。
 電気が来たので携帯が充電できる、ゲーム機も充電できる。夜、昇平は久しぶりでポケモンをした。

 旦那は震災があってから帰宅が早くなった。職場の店では今までずっと水が出ていたのだが、今日になって断水してしまったらしい。「床の拭き掃除ができなくてまいった!」と言うので、うちから水を持っていったら? と言ったら、「その程度じゃどうしようもない。規模が違う」と言われてしまった。それもそうか。


朝食:ご飯、ラジウム卵(温泉卵)、鮭フレーク、味噌汁

昼食:カップ麺やパン(忙しいのでそれぞれ適当に)

夕食:カレーライス(レトルト)、肉シューマイ(冷凍)、野菜サラダ、ニラの味噌汁

 電気が使えるので、冷凍食品の温めができるようになった。ご飯も炊飯器で炊けるようになった。電気はありがたい。
 夜も明るいので、我々が寝ている部屋を整えて、寝心地を良くした。


 ところで、昼少し前、福島第一原発の2号機・4号機も爆発を起こした、というニュースがラジオから飛び込んできた。
 「また!? どうして!?」と思わず茫然としたけれど、今は様子を見守るしかない。ニュースの時に昇平がそばにいなかったのが幸いだった。
 どうか、原発が早く落ち着いてくれますように。

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2011年3月25日 (金)

大震災3日目

3月13日 日曜日  天気:晴れ

 5時半起床。

 今回の地震の震度は、福島県伊達市では震度6弱と出ているけれど、絶対に我が家ではそれ以上の震度があったと思う。被害の様子から見て、1階が震度6強、2階は震度7あっただろう。気象庁が発表したマグニチュードも、8.8から、世界最大級の9.0に変更になった。

 さて、震災以来、私が家族に繰り返し言い続けているのは、「まずは食え、そして寝ろ」ということば。
 実は私が書いている小説のキャラクターがよく口にすることばなのだけれど、こういう場面ではとても役に立つ。
 大事なのは食べること。そして、寝て、力を回復すること。だから、朝起き抜けから、家族に向かってこれを言う。「まずは食え、そして寝ろ、だよ。たっぷり寝たから、今度はしっかり食べようね」

 とはいえ、レトルトご飯が残り少なくなってきた。これではしっかり食べられない。米はたくさんあるし、水もあるので、鍋でご飯を炊いてみることにした。やり方はよくわからないけれど、去年の秋に、親の会の芋煮会でサバ飯(サバイバル飯)を炊いたのを思い出して、やってみることにした。あの時は空き缶を鍋とかまどにして、細く切った牛乳パックを燃料にしてご飯を炊くのだけれど、今回はそこまでのことはしなくて大丈夫。水加減も完全な目分量だったけれど、「始めちょろちょろ中ぱっぱ、赤子泣いても蓋とるな」と呪文のように唱えながら炊いてみた。
 鍋の様子を見ながら炊くこと30分……ご飯が炊けた~!!! ちょっと堅めで義父母には食べにくそうだったけれど、立派な白いご飯。やったね! なんでも挑戦してみるもんだわ。

 朝食の後は洗いもの。極力水を使わずにすむように、皿にラップをかけてご飯やおかずを載せ、食事の後はラップだけを外して捨てるようにしている。味噌汁椀やコップ類を洗うのには、米のとぎ汁を使っている。これだと、すすぎが不十分でも、洗剤のように有害ではないから。
 ついでに洗顔も米のとぎ汁でやるようにしたら、化粧水や乳液も使っていないのに、顔のお肌がすべすべになってしまった。米ぬかが肌に良いっていうのは、本当だったのね。
 箸は、昇平がコンビニからもらって使わずにいた割り箸がどっさりたまっていたので、それを使っている。

 余談だけれど、断水すると水洗トイレも使えなくなる。
 それを見越して風呂やバケツに水を貯めておいたので、トイレに水のバケツを置いておいて、用を足すたびに流すようにしている。
 こんな出来事があると、しばらく便秘になる人が多いのだけれど、私はこの日に大が出た。それを見て、「うん、大丈夫だ」と自分自身で思った。

 日中は引き続き2階の片づけ。
 西の部屋では兄ちゃんが活躍。洋服ダンスや整理棚や茶ダンスを起こし、テレビを起こし、貴重品をまとめてくれている。
 私は昇平とベッドの下から整理を始めた。また山のように捨てるモノが出てくる。

 終日断水、停電。
 東の部屋から、昇平が学校で作ったドリームランプを発掘することができた。つぶれていたけれど、だいたい元通りに修復できたし、LEDランプも壊れていなかった。寝ている部屋にそれを置いて、常夜灯代わりに使うことにした。赤、青、緑と色を変えていく光が、紙製の丸いランプシェードを通して、優しく部屋を照らしてくれている。

朝食:鍋ご飯、目玉焼き、ベーコン、味噌汁

昼食:それぞれ適当にカップラーメンやパンなど

おやつ:ホットケーキ

夕食:鍋ご飯、トンカツ、クリームコロッケ、野菜サラダ、白菜味噌汁

 夕食の鍋ご飯は、水加減もばっちり成功して、美味しく炊けた。

 携帯は、日中は通信状態が悪くて、メールもなかなか届かない状態だったが、夜になって、やっとネットにアクセスすることができた。星空掲示板でたくさんの友人が心配したり応援したりしてくれているのを見て、ものすごく嬉しかった。
 負けるもんか。がんばるぞ~!!

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大震災2日目

3月12日 土曜日  天気:晴れ

 明るくなるのを待って起床。まず食べなくては! 水道は昨夜断水してしまったので、鍋に汲み置きの濁り水を入れて沸かし、レトルトご飯を温めた。ただ、旦那には間に合わなくて、パンを食べて6時前に出勤。
 また、プロパンガスは、マイコンメーターが地震に作動して停まっていただけだったので、復旧作業をしたら、ガスも使えるようになった。ガスボンベが倒れかかったので心配していたが、ガス漏れもなく復旧したので、ほっとした。火が使えるようになって、食生活は大幅に改善された。
 ただ、停電しているので、暖房器具がまったく使えない。卓上コンロを暖房代わりにつけてお湯を沸かし、ジャンパーを着込み、膝掛け代わりに毛布を掛けて、台所でご飯を食べる。それでも、暖かいご飯は元気を生んでくれる。さあ、2階の片づけ開始。

 眠れない夜を過ごしながら、片づけの段取りを頭の中でたてていた。まずは、散乱が比較的少ない東の部屋を片づけ、その後、西の部屋を片づける。昇平の携帯と薬が西の部屋に埋もれたままなので、その発掘は兄ちゃんに頼んだ。

 今回、1階もめちゃくちゃになったが、2階の散乱ぶりは、それをはるかに上回る。ひとつは揺れが1階より大きかったから。それから、揺れに方向性があって、東西への振動が強くて長かったので、そちらを向いていたタンスや整理棚がすっかり倒れて、中身が全部ぶちまけられてしまったから。そして、なにより、モノが多すぎたから。
 大事なモノ、思い出のモノもいろいろあったけれど、これを機会に、本当に大切なモノだけを手元に残して、後は思い切って捨ててしまうことにした。今までも、そんなふうにしたいな、と漠然と考えてはいたけれど、昇平があやうく圧死しかけたことから、本気で部屋の整理に取りかかった。
 捨てる、捨てる、捨てる。処分、処分、処分。ゴミ袋がたちまちいっぱいになっていく。重たいゴミ袋を、昇平が、せっせと外へ運んでくれる。
 兄ちゃんは西の部屋の不要な書類を処分しながら、私のノートパソコンと昇平の携帯を発掘してくれた。パソコンは揺れたときにスライドして机から落ちたようで、書類の中にそのまま埋もれていた。故障していないようだったので、奇跡的に無事だった昇平のパイプベッドの上へ避難させた。昇平はDSや携帯、大切なポケモンの本などをバッグに入れて、私の車の中へ避難させていた。 兄ちゃんは、不要な本も束ねて運び出してくれた。転落していた昇平のパソコン本体も、起こしてパソコンデスクに戻してくれた。

 午後、給水を知らせる広報車が通ったので、水タンク、ジャグ、バケツなどを持って、車で水をもらいに行った。兄ちゃんと昇平は、ここでもまた大活躍。水は本当に重いのだけれど、文句も言わずに車に乗せ、その後、家まで運んでくれた。その頼もしさに、「男の子を産んでおいて良かった!」と心から思った。

 電話は朝のうち、少し通じて、親戚から安否確認などあったけれど、まもなく不通になってしまった。電気も止まっているので、携帯は次々にバッテリー切れ。連絡は取れないし、情報も入ってこない中、唯一の情報源はラジオ。最初、NHKを少し聞いていたけれど、地元に密着した情報が少なくてあまり参考にならないので、すぐラジオ福島に切り替えた。国や県からの発表だけでなく、リスナーからのメール情報や安否確認なども、24時間生放送で流し続けているので、非常に助かるし、正しい情報が入ってくるので安心できる。こういうときには、やっぱり乾電池式ラジオが大切なんだな、と改めて思った。
 沿岸部は、すさまじい津波に襲われたらしい。被害の大きさに胸が痛む。義母の妹さんも、仙台に住んでいたけれど、津波で家をすっかり流され、体ひとつで命からがら逃げたらしい。その息子さんと連絡が取れなくなっているというので、非常に心配な状況。どうか無事でいてくれますように。

 夕方、薄暗くなる前に片付けを切り上げ、夕飯の支度。蝋燭の灯りを囲んで夕飯を食べているところへ、旦那も帰宅。乾電池と一緒に、携帯の充電器も買ってきてくれたので、家族で順番に充電をした。
 食事の後は、寒いし暗いので、早々に寝た。義父が寒くて寝られないというので、義母はペットボトルにお湯を入れ、タオルでくるんで湯たんぽを作っていた。 
 余震はあったけれど、疲れていたので、ぐっすり眠ることができた。


朝食:レトルトご飯、チキンナゲット、エビフライ、塩鮭、冷凍ほうれん草ソテー、ウィンナー、白菜味噌汁

昼食:すいとん

夕食:すいとん、レトルトカレー、冷凍ナン

 すいとんは、昨日の昇平の卒業祝いに、義母が仕込んでいたもの。煮上がって味をつけるばかりだったところへ、あの地震がきたのだが、奇跡的にこぼれずに残っていたので、私たちの暖かい昼食、夕食になってくれた。
 冷蔵庫が使えないので、生ものは長持ちしない。急いで食べなくてはいけないので、こんな状況なのに、けっこう豪華なメニューになった。

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2011年3月24日 (木)

大震災1日目

 あの大震災から2週間が過ぎようとしている。
 家の中の片づけもだいぶ終わり、少し余裕が出てきたので、震災後、毎日つけていた日記を、記憶が薄れないうちにアップしていこうと思う。
 余震も原発の不安も風評被害も続いているけれど、福島県が、そして東北が、負けずに力強く復興の道を歩んでいくことを祈って。

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3月11日 金曜日  天気:晴れ

 午前中は昇平の卒業式だった。L子さんが見事に参加できて全員で大喜び。
 午後、兄ちゃんが福島まで遊びに行くというので、駅まで車で送って戻ってきたところで、茶の間のテレビから地震の緊急警報が響き、次の瞬間、大地震発生した。
 思わず鞄を抱えて玄関から飛び出したけども、家の中にまだ義母と昇平がいる! 昇平のいる2階の部屋が窓から見えたが、すさまじい揺れ。電灯がめちゃくちゃ揺れて消え、壊れていく。昇平の叫び声も聞こえる。助けに飛び込みたいけれど、突き上げるような縦揺れ、激しい横揺れ、瓦が落ちる、壁が壊れる、家全体が激しく揺さぶられていて、とても入れない。揺れが収まるかと思ったら、すぐにまた激しい揺れが襲ってきた。揺れ続ける家を見ながら、「もう止めて。止まって。お願い、誰か止めて。神様!」と祈るしかなかった。義父も同じ庭で茫然と立ち尽くしていた。

 やっと揺れが収まったけれど、瓦などが落ちてくるので外から昇平を呼ぶと、「お母さん、昇平君は茶の間にいるよ!」と義母の声。いち早く二階から階下に避難して、おばあちゃんに言われて、コタツの中に隠れていたらしい。
 中学校の生活はつらいことが多かったけれど、卒業したら飯坂温泉に一泊旅行に行って、その後はフリースクールで楽しく過ごし、4月からは念願の高校生、と楽しいことが始まるはずだった昇平。「パラダイスが始まると思ったのに! 地球は、日本は滅んでしまうのか!?」と昇平が泣き叫ぶ。
 昇平が少し落ち着いてから、兄ちゃんを迎えに車で駅へ行った。あのタイミングならまだ電車には乗っていなかったはず、と思ったけれど、本当に兄ちゃんが駅の階段に座っているのを見たときには、本当にほっとした。地震の時には待合室にいて、すぐ外に飛び出したらしい。駅舎の壁の破片が落ちてきたり、兄ちゃんから10メートルほど離れたところに屋根の飾りの風見鶏が落ちてきたり。もうちょっと駅舎に近づいていたら、兄ちゃんも危なかったらしい。本当に怪我がなくて良かった。


 家の中に入ると、壁に無数のひびが入り、あちこち剥がれ落ちていた。部屋はめちゃくちゃ、特に2階はタンス、スリム戸棚、パソコン、テレビ、すべてひっくり返り、本や書類が散乱して足の踏み場もない有様だった。このあたりは震度6強だが、2階は震度7くらいあったのだと思う。昇平がいたら家具の下敷きだった。素早く避難してくれて本当に本当によかった。
 私の携帯が埋もれてしまったので、兄ちゃんの携帯で旦那や弟と連絡をとってもらい、全員が無事とわかった。
被害は甚大だけど、家族みんな無事で怪我もなかったのだから、これでいい。これで十分だ。
 「もう終わりだ!」と何度も言う昇平に、「終わりじゃないよ、始まりだよ。命さえあれば何だってできるんだよ」、と話した。

 家族はまだ呆然としていたが、私と義母だけはまとも。話し合って、とにかく寝る場所と食料の確保をすることにした。義母は車で買い物に出かけ、私は家の中で必要な物資の調達をした。
 水道は水が濁っていたがまだ出たのでバケツに組み置き。さらに2階の押し入れからサバイバル用品(=キャンプ用品)を掘り出して、水タンクにもいっぱい水をためておいた。また家中からすぐ食べられる食品を集めた。2リットル入りペットボトルの水も見つけ出した。義母は懐中電灯や乾電池、パン、カップラーメンなどを買ってきた。
 余震で家がつぶれてくると怖いので、寝場所は上に2階が載っていない茶の間と兄ちゃんの部屋に決定。義父母は茶の間に。私たちは兄ちゃんの部屋に。2階から布団や毛布を下ろしてきた。
 兄ちゃんは2階の部屋から、私の携帯と昇平のDSを発掘してくれた。

 夕飯:食パンやパン、カップラーメンなど。

 停電しているし、ガスも水も停まってしまったが、卓上コンロでお湯が沸かせるのでありがたい。これも災害用品としてキャンプセットと一緒にしまっておいたもの。おかげで熱いコーヒーも飲めた。

 旦那は9時頃帰宅。旦那の勤務するスーパーも、足の踏み場がないほどめちゃくちゃになっているらしい。

 夜は着の身着のまま、ライト付きラジオを付けっぱなしで寝た。余震が頻繁で私はほとんど寝られなかったが、旦那は早々に寝たし、こどもたちも義父もそれなりに寝ていた。義母も朝までほとんど寝られなかったらしい。長い夜だった。


Image7371_2 ←昇平がいた2階の西側の部屋。タンス、スリム戸棚、茶ダンスなどが倒れ、作り付けのタンスの扉は開き、あらゆるものが落ちて散乱している。昇平がこの部屋にぐずぐずしていたら……。奥の窓際の机には、私のノートパソコンもあった。この状態でどこも故障していなかったのは奇跡。

(兄ちゃんが携帯カメラで撮影)


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2011年3月19日 (土)

無事でいます

 福島県在住なので、震災にはかなりの被害を受けましたが、家族は全員怪我もなく元気です。
 やっとネットにつながったので、無事の報告だけしておきます。まだまだ片づけに忙しくて……。

 近況に関しては、携帯から星空掲示板に毎日載せていましたので、よろしければ、そちらをご覧ください。
   ↓
 「星空掲示板」  
   http://www.sets.ne.jp/cgi-bin/asakura/vikkibbs.cgi

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