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2007年2月 6日 (火)

特別支援教育を特別なものにはしない

 最近、よく考えている。
 我が家には確かに、ADHDという診断名を持つ小学5年生の子どもがいる。ADHDというのは、日本語に直せば「注意欠陥・多動性障害」。発達障害と呼ばれる分類の障害になるのだけれど。
 でまあ、確かに、普通学級での授業では理解するのが難しいので、特別支援学級(障害児学級)なんてのにも通っていて、それが地元の小学校にないものだから、私が毎日車で隣の学区の学校まで送り迎えしてるわけなんだけれど。
 そういう意味では、我が家は特別かもしれない。普通の子育てよりも、手がかかることは多いし。

 だけどなぁ、と最近、本当によく思う。
 日々暮らしていると、「自分たちは特別だ」なんて、めったに思わないんだよねぇ。

 我が家には高校2年になる長男もいる。毎朝電車で福島市内の学校まで通っている。この子は別に診断などない。ちょっと数学は苦手だけれど、代わりに国語が得意。運動もそこそこできて、友だちともいつも仲良く過ごせる。普通の子。本当に普通の子。
 だけど、それじゃ次男より子育てが楽か、と言うと、全然そんなことはない。次男に手がかかるところには手がかからないけれど、そのかわり、全く別のところで手がかかるし、気も遣う。むしろ、単純素直な次男の方が扱いが楽! という場面も、よくある。高校2年生なんて、お年頃ですからね。ちょっとしたことで、すぐにカチンと来たり拗ねたりするから、難しいったら、ホントに! 進路のことだって気になる時期だし。

 障害児だから、心配だと言うことではなく。
 障害児じゃないから、心配じゃない、ということでもない。
 二人の子どもは二人ともそれぞれに別のところで心配で、それぞれ別のところでは親を安心させてくれている。
 そんな子どもたちを見ていると、つくづく思う。障害があろうがなかろうが、この子たちは、ただとにかく「我が子」なんだなぁ、って。


 来年度から全国の公立の小中学校では、特別支援教育への本格的な取り組みが始まる。これは文部科学省からの通達。 特別支援教育というのは、つまり、次男のような、発達障害を抱えた子たちを学校でもしっかり支援していきましょう、ということ。それに向けた学校の取り組みは、その学校によって温度差はあるようだけれど。

 でも、私は考えている。
 特別支援教育ってのは、そんなに「特別な」教育じゃないよなぁ、と。
 障害があろうがなかろうが、子どもはみんな一人ずつ特別。得意不得意もそれぞれ違えば、心の形も違う。強情な子もいれば、傷つきやすい子もいる。障害がある子だけを支援するのが、特別支援教育じゃない。一人ずつが特別の存在の、すべての子たちを大事にしよう、っていうのが、特別支援教育なんだ、と。

 みんな同じ。みんな大事。子どもたちは一人ずつが、本当に特別。
 「特別支援教育は障害児のためのものです。診断がない子の場合は支援対象になりません」
 大真面目でそんなことを言ってくる学校長や担当者も、現実にいる。
 それは違うよ、と私は言いたい。
 発達障害を持つ子の親だからこそ、私は言いたい。
 特別支援教育は、すべての子どもたちのためのものだよ。
 普通だから大丈夫、と考えるんじゃなく、普通と言われる子たちにも苦手や不得意がある子たちは大勢いるから、その子たちに目を向けていこう。一人ずつを、「あなたはあなただから特別だよ」と言ってあげられるような、そんな教育を目ざすこと。それが特別支援教育なんだよ、と。

 障害児がいたって、我が家はごく普通に暮らしている。
 楽しいことには笑い、悲しいことには涙し、子どもが手伝ってくれれば「ありがとう」と言い、悪いことをすれば叱りつける。
 ――「障害児でも叱っていいんですか!?」 大真面目で、現場の先生から質問されたことがある。
 いいんです。障害があろうがなかろうが、それ以前に、その子は当たり前にひとりの子どもなんだから。
 その子が叱られるようなことをしたときには――わかっているのに悪いことをしたとか、ちゃんとできるはずのことを怠けてやらなかったとか――そういうときには、子どもを叱ってあげなくちゃいけない。障害児だから、その子のすべてのわがままが通ってしまうような対応は、それは支援でも何でもない。障害児を専制君主制の王様にしちゃいけない。
 「お母さんは怒ると鬼だ」
 次男は叱られるたび、よくそれを言う。涙目になることもある。
 そりゃ怖いですとも。悪いことをしたら、お母さんは鬼みたいにものすごく怒るからね。これは、あなたも兄ちゃんでも同じだよ。だって、私はあなたたちのお母さんなんだから。

 学校での特別支援教育も、それと同じなんだと思う。
 障害があってもなくても、その子は、他の子たちと同じ一人の生徒。ただ、他の大多数よりも理解しなくちゃいけない部分が特殊で、少しだけ余分に手をかけなくちゃいけない、というだけの子ども。
 教師は教師として、同じ一人の生徒として、その子を見ていって良い。悪いことをしたら、他の子と同じように叱り、自分からいいことをがんばったら(それがたとえ小さなことでも)やっぱり、他の子たちと同じように誉めて……そうして、子どもたちみんなが伸びていくように――それを目ざすのが、特別支援教育なんだと思う。

 特別支援教育の「特別」ということばが、先走りしているように感じられるこの頃。
 先生方には、ことばに惑わされず、教師として当然のことを、自信を持って子どもたちにしていってほしいな、と思っている。障害のある子もない子も、すべての子に目を向ける教育。それが特別支援教育だから。

 すべての子どもたちが、当たり前に大事にされる学校や社会になっていきますように――。

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コメント

朝倉さんが書いていることトテモよくわかる。
家は次男がアスペと診断を受けましたが
実際は長男の方がデリケートでひねくれ者だから手を焼く。
三人目の長女も言葉が遅いと言われましたが
この子は今の所一番人とのコミニケーションが上手い。
我が道を行く所もあるのですが、どこでぼけるといいと言う間を知っている。
学校も診断名にたよらず、現場の担任の先生が「ちょっと大変だから助けて」と申し出があったらサポートしてくれればいいのに・・・。
そうしたら現場の先生も苦しむ人が減るのでは・・・。と思うのです。

投稿: さゆた | 2007年2月 6日 (火) 14:41

朝倉さんの言われていること、本当にそうだなぁ、、と感じます。
特別扱いすることが教育?と思っていました。

そもそも人間は、皆同じじゃない別々の存在で
同じ枠の中に入ったら『普通』とするほうが
おかしいと思っています。

人との繋がり、係わり合いの中で生きていくために必要な
共通の決まり事や道徳は確かにとても大切だけれど、
皆が同じように『普通に』何かができて、
同じように『普通に』育っていくようにすることが
果たして本当に平等に扱っている、、ということになるのかなぁ、、
といつも思います。

皆同じに、、という不公平。
皆それぞれ違うんだ、、という平等。

あるのじゃないかなぁ、、と思っています。

投稿: マイコ | 2007年2月 6日 (火) 15:26

さゆたさん、マイコさん、コメントをありがとうございます。

この話題は、先日の親の会の支部例会でも出てきました。
「特別支援って言ったって、特別なことじゃないんだよね。あたりまえの手助けを子どもにしてほしいだけなんだよね」

ただ、発達障害を持つ子の場合、その「あたりまえの手助け」が、ちょっと他の子たちと違うことが多いから、それで支援する側は学んだり、考えたり、理解したりしなくちゃいけないのだけれど。
でも、支援の根っこの部分は、他の子たちへの手助けと同じこと。
その子がわかる授業、わかる学校生活を。
安心して過ごせる学校生活を。
自分も他の子たちと同じように、一人の生徒として大事にされているんだと実感できるように。
自分の力でできたんだ、という達成感を感じられるように。

その子が「学校が好き」と言ってくれたら、その学校の先生方の特別支援教育は、きっと成功したと言えるんだろうと思います。

投稿: 朝倉玲 | 2007年2月 6日 (火) 17:13

拍手!!!!!

投稿: むつごろう | 2007年2月 6日 (火) 18:36

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