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2007年1月17日 (水)

情報音痴が過剰報道を見る

 ここの常連の皆さんはご承知だけれど、私は情報にうとい。テレビ、ラジオ、新聞、週刊誌、ネットのニュース速報さえほとんど見ない生活をしているので、社会的な情報は私にはなかなか届いてこない。
 今まで何度もそんな自分の態度を反省して、もっと社会の出来事に関心を持とうと考えたのだけれど、新聞もネットニュースも三日坊主。やっぱりいつの間にか情報から遠ざかっている。だから、国民的な関心を集めるイベントや事件だって、やっぱり私はよく分からない。オリンピックもワールドカップも他人事。大騒ぎしている不二家の事件だって、一週間たって、やっと私の耳に届いた。天下の不二家が企業倒産にまで追い込まれそうな事態だって? ――全然知らなかった!(苦笑)

 そんな自分のことを、社会に関心がないのかなぁ、とずっと思ってきた。人や人のすることに興味が向かないから、そこで何が起きているのかにも関心を持てないのかな、と。
 でも、ここにエッセィを載せるようになってから気がついた。私は決して社会に関心がないわけじゃない。ちゃんと、それなりに身の回りの出来事に目を向けて、それについて考えている。ただ、その目の向け方が、ニュースといったものから得た情報ではなく、そのとき私が偶然目にしたり、耳にしたりした情報で判断しているのだ。言ってみれば、ピンポイント式の情報収集。
 新聞やテレビを真面目に見ようとすると、私は次第に混乱してくる。ネットでのニュースフラッシュもそう。見ているうちに、眼がちかちかしてきて、頭の中が落ちつかなくなる。
 多分、情報の処理が間に合わなくなるんだろうと思う。私はひとつのことを深く考えたいタイプだから、入ってくる情報を強くとらえすぎるのかもしれない。本当は、表面的にさらっと読み流していくべきなんだろうけれど、それができないから、疲れてきて情報から遠ざかりたくなるんじゃないだろうか。

 そんな具合だから、私はいつだって情報の浦島太郎。人が何かについて話しているのを聞いて、「えっ、そうだったの!?」と驚く。まあ、たまたまタイムリーに情報が入ってきて、話題に間に合うこともないことはないけれど。納豆が行きつけのスーパーで品薄になったのは、某人気健康番組で取り上げたからだということは、奇跡的に知っていたりする。


 でも、そんな情報音痴だからこそ、目にはっきりと見えてくることもある。
 たとえば、荒川静香のフィギュアスケートでの名演技。あれにみんなが感動したのはよく分かる。私だって、あれを見て、本当に綺麗だ、素晴らしいと思ったから。
 だけど、今騒いでいる不二家の事件は? 納豆への異様なまでのフィーバーぶりは? これは、大騒ぎされているほど、本当に、ほんとうに、大きな内容なんだろうか?

 今回の不二家の事件を聞いてから、新聞でざっと事件の経緯を読んだ。即座に、数年前の雪印事件を思い出した。でも、あの事件では実際に食中毒が起きて死者まで出てしまった。今回の不二家の事件には実際の被害者は出ていない。
 賞味期限が1日過ぎただけの生クリーム? 期限が過ぎたチョコレートやジャム? それって、でも、家庭の中では普通に平気で食べているし、食中毒も起きないよね。
 企業責任として、安全性は最大限守らなくてはならない。もちろんそれは分かっている。企業は、「信用」という目に見えないものを消費者に提供しているのだから、それを偽るような経営をすることは許されない。それも分かる。
 だけど、と思う。
 今回の一件は、日本の菓子メーカーの老舗とも言える大企業を倒産に追い込むほど、それほど重大な「事件」だったんだろうか? その会社の全ての工場で同じことをしていたわけでもなかったのに。
 なんだか、事実以上に報道が過熱していて、国民がそれに踊らされしまっているように見えるのは、情報音痴ゆえのひがみなんだろうか?

 納豆がダイエットに効果がある、というので、日本中の店頭で納豆が品薄になり、生産が間に合わない、という今の状況にも、やっぱり首をかしげる。
 納豆は体にいい。それは確かだ。でも、納豆が大好きで、毎日朝晩欠かさず納豆を食べているような私だから言えるけれど、納豆を食べたからと言って、決してそれだけで痩せることはない。他にいろいろ食べていたら、納豆をたくさん食べたって、やっぱり太っていく。
 高カロリーのおかずの代わりに納豆を食べればもちろん痩せるけれど、それは、別に納豆でなくても、同じような低脂肪高タンパクの食品を食べていれば、効果は同じだと思う。
 ここまで国民こぞって「納豆! 納豆!」と言うほどすばらしい効果があるわけではないし、逆に、そればかり食べる単品ダイエットの危険性の方が心配になってくる。

 これはなんだろう、と思う。
 日本人は昔から右ならえするのが好きな体質だけれど、それにしても、最近の過剰報道とそれに対する国民の過熱ぶりには、首をかしげてしまうことが増えた。
 どこを見ても、何を読んでも、出てくる話題はそのことばかり。次々と報道される情報。でも、新しい情報はそうそう入ってくるものではないから、同じことが繰り返し言われる。同じ映像が何度も何度も画面に現れる。その回数の分だけ、情報の内容は強まっていって、ついには実際の姿の何倍も、情報がふくれあがっていってしまう……。
 国民こぞって、話題と言えばそのことばかり。みんなが一時に専門家のようになり、事件や出来事をどんどん追いかけていく。
 だけど、まるで潮が引くように、あるところまで行くと熱は急に退き始める。あるいは、新しい事件が起きて、それに関する集中報道が始まると、人々の関心はたちまちそっちに移っていく。あれほど騒がれた事件が、たちまち人々の記憶の中から薄れて消えていく。
 たまにしか情報に触れないから人間だからこそ、そういう全体的な動きがよく見えてしまうのだ。
 これはなんだろう、と本当に思う。
 それほど大騒ぎした出来事なら、いつまでもみんな深く覚えて、人生の教訓にでもすればいいと思うのに。
 過剰な報道は、まるで祭みたいだ。その一時だけ社会を賑わして、あとは、そんなものなど最初からなかったように、跡形もなく片付けられていく……。


 そうしなかったら、この高度情報時代は乗り切れないよ、という声が聞こえてくる。
 そう、それに乗り切れないでいるのがこの私。情報音痴で不二家の事件さえ知らなかった私が、偉そうに言うことではないんだろうけれど。
 だけど、心のどこかで警鐘が鳴り続けている。
 情報を広く浅くとらえるのはかまわない。それは、情報に対するチャンネルの開き方が違うというだけのことだから。でも、その情報を自分自身の判断や考えに照らし合わせることもなく受け入れてしまって、過剰すぎる報道に踊らされていくのは、とても危険なことだという気がする。
 事件は事件。事実は事実。それを「自分は」どうとらえるか。そのことをなおざりにしていると、日本人はやがて、とんでもないところに流されていくんじゃないだろうか……?

 本当に大事なことはなんだろう。本当に大切にするべきことは、なんだろう。
 報道を離れた場所から眺めながら、最近、本当によくそんなことを考えてしまっている。

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