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2007年1月14日 (日)

宙船(そらふね)・2―「いじめ」を考える―

 今、これを書きながらBGMに「宙船」を聴いている。TOKIOのではなく、作詞作曲者の中島みゆきが歌っている方。
 この歌については、以前ここで、いじめを受けている子へのエールがこめられた曲だと書いた。何度聴いても、やっぱりそのメッセージはびんびんと伝わってくる。紅白でTOKIOの歌う「宙船」も聴いたけれど、語りかける力というか、メッセージ性の強さという点では、みゆきさん自身が歌っているこちらの方が格段に上だった。歌い手の年齢的なものも関係しているのかもしれない。

 私は発達障害児の親の会にも所属している。ご存知のとおり、次男がADHDという発達障害の診断を受けているから。先週の木曜日に支部例会があったが、障害児はいじめの対象になりやすいだけあって、その会合の場でも「いじめ」の話題が盛り上がった。
 今の子どもたちは命の尊さを知らない。親や大人たちから命の大切さを教えられてきていない。他人の気持ちや痛みを思いやることができない。自分の命も簡単に絶ってしまう。人に死に直面する経験がほとんどないからだ。年寄りと同居していればそういう経験も持てるけれど、核家族となると……。
 話題は尽きない。話は次第に熱を帯びる。
 でも、私は心の中で小さく首をひねっていた。それは確かにそのとおりだと思う。いじめはいけない。人の命の尊さは知らなくてはならない。それを教えるのは大人の役目だとも思う。だけど。
 どの意見も、どこかで聞いたことのある、誰か別の人が言っていたことのような気がしてならないのだ。それを言っていたのは、身近にいる「誰か」ではない。テレビやラジオで、「これが正しいんですよ」と立派なことを言っている「専門家たち」の、わかったような顔が浮かんできた。

 人の死に直面すれば、人は誰でも他者の命を大事にするようになるのだろうか? それならば、戦争を経験し、襲撃を受けた人たちは、もう二度と戦争を起こさないことになる。
 いじめはいけない、それは間違っている、と教えることは大切だ。だけど、それさえ聞かせ続ければ、子どもたちはいじめをしなくなるんだろうか? 
 いじめられている子に死ぬのはいけない、と言うことはできる。でも、その代わりに、その子に救いの手は差し伸べられているだろうか?
 なんだか、どれもこれも綺麗事で、表面的で浅い気がする。違う。それだけじゃ足りない。心のどこかから、直感がそう語りかけてきた。

 いじめる子たちは、何故いじめるのだろう?
 いじめは良くない。だけど、そうわかっているのに、そう聞いているのに、何故あの子たちはいじめるのだろう?
 それは、人の心に他者をいじめて楽しむ気持ちがあるから。そもそも、最初にそれがあるから。――まず、そこからスタートしなくては、その先には進まないんじゃないだろうか?

 私は人間が好きで、人の善意というものも信じているものだから、「朝倉さんは性善説ですね」などと時々言われてしまうのだけれど、でも、人は100%性善ではない、とも実は思っている。人はそんなに正しい生き物じゃない。それほど立派なものでもない。
 弱いもの、異質なもの、奇妙で変わったものを見ると、本能的にいじめたり迫害したりしたくなる。そういう残酷な一面を持った生き物が「人間」なんだと私は思っている。
 子どもたちはまだ幼くて、その本質が素直だから、性善な面も残酷な面も、そのまま、ありのままに外に出てくる。だから、彼らは異質なものを見つけると、即座に気がついていじめたくなる――んじゃないだろうか。あいつ変だな、おかしいな、ちょっとこっち来るなよ、あっち行けよ。俺たちと、あたしたちと違うじゃない。わけわかんないこと言うんじゃないよ。うざいな、近寄るな。きもいんだよ。そんなことばを使いながら。
 それが「人間」の持つ、どうしようもなく悲しい一面なのだと、まずそこからスタートする必要があるんじゃないだろうか。
 人は異質なものを恐れる。自分と違うもの、理解しにくいものを拒絶しようとする。それは本能的な反応。
 だけど、見方を変えれば。もう少し理解の幅を広げてみれば、変だと思っていたヤツも、実はそう変でもなかった、とわかるかもしれない。ただ弱いだけ、少し苦手があるだけで、やっぱり自分と同じ人間だった、とわかるようになって、受け入れられるようになるかもしれない。
 そこを子どもたちに教えるのが、大人たちなんだろうと私は思う。
 いじめる気持ちそのものを、持ってはいけない、感じることも誤ったことだと否定してかかったら、子どもたちの本当の心には、近づいていけないんじゃないだろうか。
 そもそも、それを教える我々大人自身、そんなに心正しい存在だろうか? 誰のことも、疎ましがったり、傷つけたりしないでいられるほど、性善そのものの人間だろうか? ……違うよね。

 そして、もうひとつ、大事なことを忘れちゃいけない、とも思っている。
 それは、いじめる側の子どもたちに、心を受け止めてもらった経験を持たせること。
 今の子たちは……と言うならば、私はこんな風に聞いてみたい。「今の子たちは、自分の気持ちを大人から充分受け止めてもらった経験があるんだろうか? 自分たちが言いたいこと、伝えたいことを、大人に充分聞いてもらった経験があるんだろうか?」
 自分が大切にされた経験がない子たちは、他人を大切にすることができない。できるわけがない。自分自身が大切にされていないのだもの。
 障害ある子を持っていると、大なり小なり、いじめとは無縁ではいられない。次男だって、小さないじめには何度も遭っている。でも、その時、いじめた側の子どもたちを見てみると、その子たちの中には必ず、自分の家庭の中で居場所を見つけられないでいる子どもたちがいた。それも複数。
 本当は自分こそが大事にされたいのに。自分を大切にしてほしいのに。守ってほしいのに。でも、周囲の大人たちはそんな自分の気持ちをわかってはくれない。そんな想いを胸に抱いた子どもたちが、自分より弱い子どもたちに目をつけて、いじめを始める――そして、それに周囲の子たちが便乗していじめが広がっていく――そんな構図が見えている。
 自分が大切にされていない子たちに、他人を大切にしろ、と言っても彼らの心には届かない。その子自身が大切にされること。大人から、親から、本当の意味で受け入れられること。それしかきっと、解決方法はないんだろう。
 今、子どもたちの社会に広がっているいじめの問題は、まさしく大人の問題なのだと私は思う。
 大人たちが子どもたちの心に向き合って来なかった「つけ」が、今、大規模な「いじめ」という社会問題になって吹き出しているんだろう、と。

 今からだって、遅くはない。今、この瞬間からだって、絶対に遅すぎるなんてことはない。
 子どもの話すことに、口をはさまずに、まず聞いてあげること。子どもに話をしてもらえる大人になっていくこと。本当のいじめ対策は、そこから始まるんじゃないだろうか。
 子どもが大人を信頼して話すようになったなら、いじめられている子だって、なんらかのメッセージを大人に送るようになる。それに気づける大人にならなくちゃいけないと思う。子どもに見限られて、子どもから相談してもらえなくて、子どもたちに死なれてしまう――そんなふうにならないように。 

 障害ある我が子がいじめられるんじゃないか、と親の会のメンバーたちは心配していた。
 だけど、我が子が親にしっかり話をする子であれば、きっと手遅れになる前にそれを親に伝えてくれる。そして、みんなは子どもがSOSを出したときに、そのままほったらかしには絶対にしない。子どもを守るために動き出す。だから、大丈夫。たとえいじめられたって、きっと大丈夫だよ。私はみんなにそんなふうに話した。

 いじめの問題の根は深い。いじめるな、と教えたくらいで、人の死ぬ様子を見せたくらいで、解決していくほど簡単なものじゃない。
 大切なのは人と人、心と心が向き合う経験なんだろうと思う。自分が受け止められている、と子どもが実感できる、そんな関係を子どもと築いていくことなんだろうと思う。長い長い時間がかかることなんだろうと。
 忙しく過ぎていく日々。人の生活は確かに豊かで便利になっているけれど。
 大事なことは、大昔から変わることなく続いている。一番大切なことは、きっと、とてもとても基本的なこと。
 人は人とつながり合わなければ生きてはいけない生き物。
 そのために、人を理解する。受け入れる。
 大切なことは、いつだって、とても単純なんだと私は思う。

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