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2007年1月31日 (水)

平原綾香ニューアルバム「そら」

 出ました! 届きました! 平原綾香さんのニューアルバム「そら」!
 予約注文したのは先月半ばのこと。発売日は今日。待ちかねました。発売日にちゃんと届けてくれたアマゾンさん、えらい!(爆)

 青くて綺麗なアルバムジャケット。青空模様のチュチュ風衣装を着たあーやちゃんが、バレリーナのように足を曲げて踊っています。いいなぁ、軽やかな感じ。
 とるものもとりあえず、とにかくプレーヤーに。あまり先入観なく聴きたかったので、わざと収録曲は確認しないで。
 すると、流れてきたのは……

 わぁい、「ボイジャーズ」だぁっ!!!

 マキシシングルで買って、何度も何度も聴いていました。そうかー、これをトップの曲に収録したんだー。
 シングルと同じバージョンだけれど、いいものはいい! マキシシングルだとすぐにCDが終わっちゃうのが不満だったけれど、アルバムならいろいろ聴いて長く楽しめるからいいなー。
 あ、あ、8曲目には「クリスマス・リスト」も入ってた! これもマキシシングルで持っているけど、なんだか嬉しいなー。この曲に関する感想は、ペンスタンドの方に書いたっけ。……でも、ちょいと恥ずかしい内容なので、読みたい人はがんばって自分で探して読んでください。(笑)

 あーやちゃんの歌は、声も素晴らしいけれど、歌詞がまた良くて、ことばひとつひとつをかみしめるように聴くと、じーんと来てしまう。
 まだ届いて間もないので、歌詞を吟味して聴く段階まで来ていないけれど、それでも2曲目の「Wall」とアルバムタイトル曲の「そら」には、しみじみと……いいなぁ、と。
 特に「Wall」は、好きなものに囲まれて守られていた(壁の中の)場所から、苦しいと知りながらも飛び立とうとしていく歌で――あはは。やっぱりこの手の歌には、すごく感動してしまうのだなぁ。年甲斐もなく。(爆)

 これ以外の曲では、9曲目の「シチリアーナ」も、ものすごく気に入りました。これはもともとはクラシック曲。切ないメロディに切ない歌詞がよく合っています。

 私が買ったのは初回限定版なので、最後にボーナストラックが入っています。コンサートのライブ録音だという「Come on my house」。これがねー、また、すっごくいいです。ジャズ風? アルバム全体の雰囲気とはがらり違った歌い方のあーやちゃんが素敵です。

 CDケースには「平原綾香コンサートツアー2007~そら~」のチケット先行予約のお知らせも入っていました。
 コンサートの予定地と日程がずらり。わー、そうかー。あーやちゃんはいよいよ音大を卒業するんだものねー。本格的にプロとしての活動を始めるんだー。
 ここから一番近いコンサート会場は仙台なのだけれど、さすがに午後6時開演というのは、子どもがいる主婦にはちときつい……。おとなしく、CDを聴いて堪能することにします。(苦笑)

 これ以外にも、聴いていて感想が出てきたら、また書くことにしましょう。
 とりあえず、今日は興奮と感動の第一印象をアップしまーす!(笑)


平原綾香 「そら」


p.s.
 ボーナストラックの「Come on my house」。やっぱりラストであーやちゃんは、「Come on my Budoukan」と歌ってますね。どうやら、武道館でのコンサートライブのようで。(笑)
   

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2007年1月23日 (火)

時の流れとホームページ

 久しぶりでホームページのリンク集に新しいリンク先を追加して、そのついでに、今まで登録してきたリンク先の確認をしてみた。何ヶ月ぶりだったろう? 前回更新したのが去年の9月だったから、4か月ぶり? 意外なくらい、あちこちのサイトが閉鎖したり、更新が停滞したりしていた。
 サイトが休止中でも、実質活動しているところはあるし、今は停滞していてもまだ続ける意思はあるようだな、と思うところもある。でも、もうずいぶん長いこと、どこでもほとんど姿を見かけなくなってしまった管理人もいて、そういうサイトは残念だけれど、リンク集から外すことにした。

 私のホームページ歴もいつの間にかずいぶん長くなった。
 その間に、特に発達障害関係で、役にたちそうなサイトをいくつも紹介してきたけれど、いくつものサイトがいつの間にかネットから消えたり、停滞していったりして、それを目にするたびに、時間の流れというものを感じてしまっている。
 ホームページを長く続けるというのは、なかなか大変なことだね。ブログも、簡単に作ることはできるけれど、それを長く書き続けていくというのは、やっぱり大変なことだね……。
 なんだか、つくづくそんなことを考える。

 私のサイトも、一時期から見ると、「てくてく日記」の更新頻度が下がった。以前はほとんど毎日更新していたのにね。
 でも、これはある意味しかたない。昇平が高学年になって家にいる時間が短くなって、私の目に触れる機会が少なくなってしまったから、記事になるネタが少なくなったのだもの。子どもが大きくなって、以前のように母親があれこれ手を出し気を配り工夫する、ということが減ったせいもある。子どもの成長に伴う変化だから、これはしかたないと思っている。
 でも、その代わり、創作日記の「ペンスタンド」が、ほとんど毎日更新されるようになった。小説も頻繁に更新している。掲示板も、一時期の勢いはもうないかもしれないけれど、今もちゃんと続いている。
 派手じゃなくていい。有名なんかじゃなくていい。ただ、しばらく足遠のいていた人が、「そういえば、あのサイトを最近どうしてるかな」と思い出したときに、元気な姿をまた見せて上げられるような、そんなサイトでいたいな、なんて思う。
 「あなたも元気でがんばっていたんですね。私たちも元気でがんばってましたよ」――そんなふうに言ってあげられるような。

 「アサクラ・タウン」はいつまで続くんだろう。
 永久に続くなんてことがあり得ないのは確かだけれど。
 でも、焦ることなく、無理することなく、自分も見に来る人も楽しめるような居心地のいいサイト作りを、これからもできるだけ長く続けていきたいな……なんて、改めて今、考えている。 

 「アサクラ・タウン」は今年の8月末で10年目に突入します。

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2007年1月22日 (月)

情報音痴が過剰報道を見る・2

 もう今さらという感じではありますが、例の「納豆ダイエット」データねつ造事件……。
 これまた偶然にではあったけれど、発表になった翌朝には、旦那からそのニュースを聞くことができました。
 聞いて一言、口をついて出てきたことば。
「あったりまえじゃないの~!!」

 前回のここの記事にも書いたとおり、納豆たくさん食べたって、それだけで痩せるわけはないのです。そんな奇跡のような効用があるわけない。(あったら、とっくに知られてる!)
 でも、いかにもそれらしいように「見える」データを提示されると、日本人は本当に弱いですねぇ。これは、しょっちゅう感じてます。
 以前、ここで紹介した「『水からの伝言』を信じないでください」も、そう。いかにも科学的で正確な実験をやったように見せかけて、しかも、写真という一目でわかりやすいものを「証拠」として提示すると、相当知的なはずの人たちまでが、ころっと信じ込んでしまう。
 もうちょっと冷静になってごらんよ、変だと気がつくはずだよ~……と私なんかは思うんですけどねぇ。(苦笑)

 「納豆ダイエット」は、納豆が店頭から消えるという大きすぎる反響を呼んだばかりに問題が大きくなりましたが、はっきりいって、この手のデータねつ造や、それに近い「やらせ」の番組作りは、日常的に行われているんだろうと思っています。特に、よくできた番組を見ていると感じますね。「決定的瞬間」や「驚くべき事実」なんてものが、コメントに流れるほどたびたびあったら、そんなもの、決定的でも驚くべきことでもないですから。

 でも、今回のような事件の原因は、我々視聴者の側にもある、と思っています。
 「あるある大事典」だって、最初は本当に医学的に根拠のあることや、きちんと実験を踏まえて得たデータを元に、番組を作っていたはずなんですよね。ところが視聴率が上がってきて、番組も「あるある2」に続き、似たような番組を他局でやっていることもあって、取り上げられるネタもだんだん尽きてくる。データを得るための時間も足りなくなる。そもそも、「こういう結果が出てくるといいな」と思いながらも、実際には思うような結果が得られないというのが科学の基本なのに、それを〆切と追いかけっこで番組制作すること自体に無理があるんですよね。
 もっと、視聴者がゆっくり、ゆったり番組を見守っていられたら――あんなに、ひとつひとつの健康「的」食品にフィーバーして飛びつくようでなければ、番組の制作姿勢ももう少し違っていたんじゃないかなぁ、なんても思うのです。

 「あるある」も放送打ちきりになりそうだ、という話ですね。
 なんだか、なにもかもが、同じようなパターンをたどっているような気がして怖いです。
 わっと何かに国民が飛びつく。いいことでも悪いことでも。群がるように、それに熱中して、良ければみんなこぞって右倣えするし、悪いことであったら、徹底的にそれを非難して、叩いて叩いて、ついには打ち切りや廃業にまで追い込んで……。

 この構図、何かに似ているような気もします。
 今、日本中の学校で問題になっている「いじめ」の経緯に、よく似ていませんか?
 自分自身が痛くないから、いじめて面白い相手を、徹底的にいじめ抜く。そんな姿に似て見えるのは――

 やっぱり、私が情報音痴で、ピンポイントで得る情報だけで比較判断しちゃうから、なんでしょうかね? 

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2007年1月17日 (水)

情報音痴が過剰報道を見る

 ここの常連の皆さんはご承知だけれど、私は情報にうとい。テレビ、ラジオ、新聞、週刊誌、ネットのニュース速報さえほとんど見ない生活をしているので、社会的な情報は私にはなかなか届いてこない。
 今まで何度もそんな自分の態度を反省して、もっと社会の出来事に関心を持とうと考えたのだけれど、新聞もネットニュースも三日坊主。やっぱりいつの間にか情報から遠ざかっている。だから、国民的な関心を集めるイベントや事件だって、やっぱり私はよく分からない。オリンピックもワールドカップも他人事。大騒ぎしている不二家の事件だって、一週間たって、やっと私の耳に届いた。天下の不二家が企業倒産にまで追い込まれそうな事態だって? ――全然知らなかった!(苦笑)

 そんな自分のことを、社会に関心がないのかなぁ、とずっと思ってきた。人や人のすることに興味が向かないから、そこで何が起きているのかにも関心を持てないのかな、と。
 でも、ここにエッセィを載せるようになってから気がついた。私は決して社会に関心がないわけじゃない。ちゃんと、それなりに身の回りの出来事に目を向けて、それについて考えている。ただ、その目の向け方が、ニュースといったものから得た情報ではなく、そのとき私が偶然目にしたり、耳にしたりした情報で判断しているのだ。言ってみれば、ピンポイント式の情報収集。
 新聞やテレビを真面目に見ようとすると、私は次第に混乱してくる。ネットでのニュースフラッシュもそう。見ているうちに、眼がちかちかしてきて、頭の中が落ちつかなくなる。
 多分、情報の処理が間に合わなくなるんだろうと思う。私はひとつのことを深く考えたいタイプだから、入ってくる情報を強くとらえすぎるのかもしれない。本当は、表面的にさらっと読み流していくべきなんだろうけれど、それができないから、疲れてきて情報から遠ざかりたくなるんじゃないだろうか。

 そんな具合だから、私はいつだって情報の浦島太郎。人が何かについて話しているのを聞いて、「えっ、そうだったの!?」と驚く。まあ、たまたまタイムリーに情報が入ってきて、話題に間に合うこともないことはないけれど。納豆が行きつけのスーパーで品薄になったのは、某人気健康番組で取り上げたからだということは、奇跡的に知っていたりする。


 でも、そんな情報音痴だからこそ、目にはっきりと見えてくることもある。
 たとえば、荒川静香のフィギュアスケートでの名演技。あれにみんなが感動したのはよく分かる。私だって、あれを見て、本当に綺麗だ、素晴らしいと思ったから。
 だけど、今騒いでいる不二家の事件は? 納豆への異様なまでのフィーバーぶりは? これは、大騒ぎされているほど、本当に、ほんとうに、大きな内容なんだろうか?

 今回の不二家の事件を聞いてから、新聞でざっと事件の経緯を読んだ。即座に、数年前の雪印事件を思い出した。でも、あの事件では実際に食中毒が起きて死者まで出てしまった。今回の不二家の事件には実際の被害者は出ていない。
 賞味期限が1日過ぎただけの生クリーム? 期限が過ぎたチョコレートやジャム? それって、でも、家庭の中では普通に平気で食べているし、食中毒も起きないよね。
 企業責任として、安全性は最大限守らなくてはならない。もちろんそれは分かっている。企業は、「信用」という目に見えないものを消費者に提供しているのだから、それを偽るような経営をすることは許されない。それも分かる。
 だけど、と思う。
 今回の一件は、日本の菓子メーカーの老舗とも言える大企業を倒産に追い込むほど、それほど重大な「事件」だったんだろうか? その会社の全ての工場で同じことをしていたわけでもなかったのに。
 なんだか、事実以上に報道が過熱していて、国民がそれに踊らされしまっているように見えるのは、情報音痴ゆえのひがみなんだろうか?

 納豆がダイエットに効果がある、というので、日本中の店頭で納豆が品薄になり、生産が間に合わない、という今の状況にも、やっぱり首をかしげる。
 納豆は体にいい。それは確かだ。でも、納豆が大好きで、毎日朝晩欠かさず納豆を食べているような私だから言えるけれど、納豆を食べたからと言って、決してそれだけで痩せることはない。他にいろいろ食べていたら、納豆をたくさん食べたって、やっぱり太っていく。
 高カロリーのおかずの代わりに納豆を食べればもちろん痩せるけれど、それは、別に納豆でなくても、同じような低脂肪高タンパクの食品を食べていれば、効果は同じだと思う。
 ここまで国民こぞって「納豆! 納豆!」と言うほどすばらしい効果があるわけではないし、逆に、そればかり食べる単品ダイエットの危険性の方が心配になってくる。

 これはなんだろう、と思う。
 日本人は昔から右ならえするのが好きな体質だけれど、それにしても、最近の過剰報道とそれに対する国民の過熱ぶりには、首をかしげてしまうことが増えた。
 どこを見ても、何を読んでも、出てくる話題はそのことばかり。次々と報道される情報。でも、新しい情報はそうそう入ってくるものではないから、同じことが繰り返し言われる。同じ映像が何度も何度も画面に現れる。その回数の分だけ、情報の内容は強まっていって、ついには実際の姿の何倍も、情報がふくれあがっていってしまう……。
 国民こぞって、話題と言えばそのことばかり。みんなが一時に専門家のようになり、事件や出来事をどんどん追いかけていく。
 だけど、まるで潮が引くように、あるところまで行くと熱は急に退き始める。あるいは、新しい事件が起きて、それに関する集中報道が始まると、人々の関心はたちまちそっちに移っていく。あれほど騒がれた事件が、たちまち人々の記憶の中から薄れて消えていく。
 たまにしか情報に触れないから人間だからこそ、そういう全体的な動きがよく見えてしまうのだ。
 これはなんだろう、と本当に思う。
 それほど大騒ぎした出来事なら、いつまでもみんな深く覚えて、人生の教訓にでもすればいいと思うのに。
 過剰な報道は、まるで祭みたいだ。その一時だけ社会を賑わして、あとは、そんなものなど最初からなかったように、跡形もなく片付けられていく……。


 そうしなかったら、この高度情報時代は乗り切れないよ、という声が聞こえてくる。
 そう、それに乗り切れないでいるのがこの私。情報音痴で不二家の事件さえ知らなかった私が、偉そうに言うことではないんだろうけれど。
 だけど、心のどこかで警鐘が鳴り続けている。
 情報を広く浅くとらえるのはかまわない。それは、情報に対するチャンネルの開き方が違うというだけのことだから。でも、その情報を自分自身の判断や考えに照らし合わせることもなく受け入れてしまって、過剰すぎる報道に踊らされていくのは、とても危険なことだという気がする。
 事件は事件。事実は事実。それを「自分は」どうとらえるか。そのことをなおざりにしていると、日本人はやがて、とんでもないところに流されていくんじゃないだろうか……?

 本当に大事なことはなんだろう。本当に大切にするべきことは、なんだろう。
 報道を離れた場所から眺めながら、最近、本当によくそんなことを考えてしまっている。

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2007年1月14日 (日)

宙船(そらふね)・2―「いじめ」を考える―

 今、これを書きながらBGMに「宙船」を聴いている。TOKIOのではなく、作詞作曲者の中島みゆきが歌っている方。
 この歌については、以前ここで、いじめを受けている子へのエールがこめられた曲だと書いた。何度聴いても、やっぱりそのメッセージはびんびんと伝わってくる。紅白でTOKIOの歌う「宙船」も聴いたけれど、語りかける力というか、メッセージ性の強さという点では、みゆきさん自身が歌っているこちらの方が格段に上だった。歌い手の年齢的なものも関係しているのかもしれない。

 私は発達障害児の親の会にも所属している。ご存知のとおり、次男がADHDという発達障害の診断を受けているから。先週の木曜日に支部例会があったが、障害児はいじめの対象になりやすいだけあって、その会合の場でも「いじめ」の話題が盛り上がった。
 今の子どもたちは命の尊さを知らない。親や大人たちから命の大切さを教えられてきていない。他人の気持ちや痛みを思いやることができない。自分の命も簡単に絶ってしまう。人に死に直面する経験がほとんどないからだ。年寄りと同居していればそういう経験も持てるけれど、核家族となると……。
 話題は尽きない。話は次第に熱を帯びる。
 でも、私は心の中で小さく首をひねっていた。それは確かにそのとおりだと思う。いじめはいけない。人の命の尊さは知らなくてはならない。それを教えるのは大人の役目だとも思う。だけど。
 どの意見も、どこかで聞いたことのある、誰か別の人が言っていたことのような気がしてならないのだ。それを言っていたのは、身近にいる「誰か」ではない。テレビやラジオで、「これが正しいんですよ」と立派なことを言っている「専門家たち」の、わかったような顔が浮かんできた。

 人の死に直面すれば、人は誰でも他者の命を大事にするようになるのだろうか? それならば、戦争を経験し、襲撃を受けた人たちは、もう二度と戦争を起こさないことになる。
 いじめはいけない、それは間違っている、と教えることは大切だ。だけど、それさえ聞かせ続ければ、子どもたちはいじめをしなくなるんだろうか? 
 いじめられている子に死ぬのはいけない、と言うことはできる。でも、その代わりに、その子に救いの手は差し伸べられているだろうか?
 なんだか、どれもこれも綺麗事で、表面的で浅い気がする。違う。それだけじゃ足りない。心のどこかから、直感がそう語りかけてきた。

 いじめる子たちは、何故いじめるのだろう?
 いじめは良くない。だけど、そうわかっているのに、そう聞いているのに、何故あの子たちはいじめるのだろう?
 それは、人の心に他者をいじめて楽しむ気持ちがあるから。そもそも、最初にそれがあるから。――まず、そこからスタートしなくては、その先には進まないんじゃないだろうか?

 私は人間が好きで、人の善意というものも信じているものだから、「朝倉さんは性善説ですね」などと時々言われてしまうのだけれど、でも、人は100%性善ではない、とも実は思っている。人はそんなに正しい生き物じゃない。それほど立派なものでもない。
 弱いもの、異質なもの、奇妙で変わったものを見ると、本能的にいじめたり迫害したりしたくなる。そういう残酷な一面を持った生き物が「人間」なんだと私は思っている。
 子どもたちはまだ幼くて、その本質が素直だから、性善な面も残酷な面も、そのまま、ありのままに外に出てくる。だから、彼らは異質なものを見つけると、即座に気がついていじめたくなる――んじゃないだろうか。あいつ変だな、おかしいな、ちょっとこっち来るなよ、あっち行けよ。俺たちと、あたしたちと違うじゃない。わけわかんないこと言うんじゃないよ。うざいな、近寄るな。きもいんだよ。そんなことばを使いながら。
 それが「人間」の持つ、どうしようもなく悲しい一面なのだと、まずそこからスタートする必要があるんじゃないだろうか。
 人は異質なものを恐れる。自分と違うもの、理解しにくいものを拒絶しようとする。それは本能的な反応。
 だけど、見方を変えれば。もう少し理解の幅を広げてみれば、変だと思っていたヤツも、実はそう変でもなかった、とわかるかもしれない。ただ弱いだけ、少し苦手があるだけで、やっぱり自分と同じ人間だった、とわかるようになって、受け入れられるようになるかもしれない。
 そこを子どもたちに教えるのが、大人たちなんだろうと私は思う。
 いじめる気持ちそのものを、持ってはいけない、感じることも誤ったことだと否定してかかったら、子どもたちの本当の心には、近づいていけないんじゃないだろうか。
 そもそも、それを教える我々大人自身、そんなに心正しい存在だろうか? 誰のことも、疎ましがったり、傷つけたりしないでいられるほど、性善そのものの人間だろうか? ……違うよね。

 そして、もうひとつ、大事なことを忘れちゃいけない、とも思っている。
 それは、いじめる側の子どもたちに、心を受け止めてもらった経験を持たせること。
 今の子たちは……と言うならば、私はこんな風に聞いてみたい。「今の子たちは、自分の気持ちを大人から充分受け止めてもらった経験があるんだろうか? 自分たちが言いたいこと、伝えたいことを、大人に充分聞いてもらった経験があるんだろうか?」
 自分が大切にされた経験がない子たちは、他人を大切にすることができない。できるわけがない。自分自身が大切にされていないのだもの。
 障害ある子を持っていると、大なり小なり、いじめとは無縁ではいられない。次男だって、小さないじめには何度も遭っている。でも、その時、いじめた側の子どもたちを見てみると、その子たちの中には必ず、自分の家庭の中で居場所を見つけられないでいる子どもたちがいた。それも複数。
 本当は自分こそが大事にされたいのに。自分を大切にしてほしいのに。守ってほしいのに。でも、周囲の大人たちはそんな自分の気持ちをわかってはくれない。そんな想いを胸に抱いた子どもたちが、自分より弱い子どもたちに目をつけて、いじめを始める――そして、それに周囲の子たちが便乗していじめが広がっていく――そんな構図が見えている。
 自分が大切にされていない子たちに、他人を大切にしろ、と言っても彼らの心には届かない。その子自身が大切にされること。大人から、親から、本当の意味で受け入れられること。それしかきっと、解決方法はないんだろう。
 今、子どもたちの社会に広がっているいじめの問題は、まさしく大人の問題なのだと私は思う。
 大人たちが子どもたちの心に向き合って来なかった「つけ」が、今、大規模な「いじめ」という社会問題になって吹き出しているんだろう、と。

 今からだって、遅くはない。今、この瞬間からだって、絶対に遅すぎるなんてことはない。
 子どもの話すことに、口をはさまずに、まず聞いてあげること。子どもに話をしてもらえる大人になっていくこと。本当のいじめ対策は、そこから始まるんじゃないだろうか。
 子どもが大人を信頼して話すようになったなら、いじめられている子だって、なんらかのメッセージを大人に送るようになる。それに気づける大人にならなくちゃいけないと思う。子どもに見限られて、子どもから相談してもらえなくて、子どもたちに死なれてしまう――そんなふうにならないように。 

 障害ある我が子がいじめられるんじゃないか、と親の会のメンバーたちは心配していた。
 だけど、我が子が親にしっかり話をする子であれば、きっと手遅れになる前にそれを親に伝えてくれる。そして、みんなは子どもがSOSを出したときに、そのままほったらかしには絶対にしない。子どもを守るために動き出す。だから、大丈夫。たとえいじめられたって、きっと大丈夫だよ。私はみんなにそんなふうに話した。

 いじめの問題の根は深い。いじめるな、と教えたくらいで、人の死ぬ様子を見せたくらいで、解決していくほど簡単なものじゃない。
 大切なのは人と人、心と心が向き合う経験なんだろうと思う。自分が受け止められている、と子どもが実感できる、そんな関係を子どもと築いていくことなんだろうと思う。長い長い時間がかかることなんだろうと。
 忙しく過ぎていく日々。人の生活は確かに豊かで便利になっているけれど。
 大事なことは、大昔から変わることなく続いている。一番大切なことは、きっと、とてもとても基本的なこと。
 人は人とつながり合わなければ生きてはいけない生き物。
 そのために、人を理解する。受け入れる。
 大切なことは、いつだって、とても単純なんだと私は思う。

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2007年1月 7日 (日)

七草がゆ

 今日は1月7日。一年間の無病息災を願って、朝食に七草がゆをいただきました。

 でも、思い出してみると、私が子どもだった頃にはまともに七草がゆなんて食べた記憶がありません。テレビや新聞や雑誌などで「七草がゆ」の話題は取り上げられるし、国語の時間に「春の七草」を暗記させられた記憶もあるのだけれど、肝心の実物を食べたことがなかったのです。
 親が怠慢をしていたから? いえいえ、あの当時、1月7日に東北地方で七草なんて手に入らなかったからでございます。野も山も雪の下。摘み草なんかできるわけがない。当時は七草なんて売ってませんでしたしね。
 時代は変わり、流通機構も栽培技術も進み、雪国でも新鮮で柔らかな「七草セット」が店頭に並ぶようになった今。私たちも気軽に七草がゆを作って食べられるようになった、というわけです。

 七草がゆの作り方というのは、全国共通なんでしょうか? うちは、七草セットのパッケージにあるとおりの作り方をしています。おかゆを炊いて、塩少量を混ぜ、湯通しして刻んだ七草と、焼いた小さな角餅を混ぜていただくわけです。おかゆだけではすぐ空腹になりますが、餅が入っているので満腹感が持続します。
 
 今年は昇平が七草がゆを喜んで食べました。今までは形ばかり箸をつけて、あとは「いらない」と言っていたのに、今年になったら「ぼく、いっぱい食べたいからもっとわけて」と言ってきて、本当に、誰よりもたくさん食べました。あれほど好き嫌いの激しかった子が、最近は本当に何でも食べて、食べ過ぎて、ダイエットが必要になってきたほど。七草がゆの食べっぷりを見て、今年はどこまで大きくなっていくんだろう……と密かに不安になりました。上に大きくなるのはいいけれど、横に育つのはねぇ。(苦笑)

 七草も済んで、正月も一通りおしまい。あ、年賀状、あと少しだけ返事を出していない人がいたのだわ。書かなくちゃ。
 一区切りつける七日が日曜日というのは、用事が片付いて悪くないかも、とも思ったのでした。

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