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2006年8月10日 (木)

平和への祈り

 昔、ドキュメンタリー映画で、崖から海へ落ちていく人たちの映像を見たことがあります。沖縄で自決していく人たちの姿でした。女子どもが大半だった、と聞いています。
 たくさんの人の姿が遠景で写されていました。アメリカ軍が撮影したものだったのです。それこそ、人形か棒きれのように、次々に海に向かって落ちていって……。でも、それは紛れもなく、その時生きていた「本物の人間」の姿でした。
 人が人として扱われない、ということがどういうことか、その時に痛感したような気がします。

 最近は本当に情報技術が発達して、たった今起こっている事件や出来事がテレビやインターネットに映り、まるで目の前のことのように報道されるようになりました。けれども、それは同時に、その時の沖縄の映像と同じように、ものすごい違和感を私に感じさせます。

 そこに見えているのに、
 音も聞こえているのに、
 ちょっと手を伸ばせば届きそうなのに、
 なのに、絶対に手が届かない「現場」。

 阪神大震災で炎上する神戸を見たときもそうでした。日本大使館で人質になっていた人たちの報道を見ていたときも、アメリカがイラクを空爆したときも、その他の様々な事件のときにも。

 見えている。聞こえている。
 でも、こことは別の世界。
 ブラウン管やモニターの向こう側にあって、私とは切り離されている、無関係な出来事。
 その中に映る人々は、どんなに傷ついていても、苦しんでいても、沖縄のあの映像の中の人々のように非現実的で・・・。

 61年前の戦争も、今、リアルタイムで伝わってくる事件や事故の映像も、どこかでつながっているものがある気がします。現実にあったことなのに、私たちが本気で自分のこととしてとらえなければ、結局は別世界のこと、自分とは無関係な出来事になるのですね。
 それこそが、人を人とは思えなくなって、残虐な行動に走ることが「できる」人々を生んでいくのだろう、と感じています。

 戦争は61年前に終わりました。
 でも、同じ危険は今も脈々と私たちの中そのものに続いています。
 その事実から目をそむけてはいけないのだと――自分自身のこととして考えなくてはならないのだろう、と。
 そんなふうに思っています。

 10月になると、兄ちゃんは修学旅行で沖縄に行きます。がま(沖縄の防空壕)にも入ってくるそうです。彼らなりに、戦争というものを追体験してきて、平和の意義を考えてくれることを願っています。
 平和で平凡に見えるこの日々。
 でも、それこそが、何ものにも代え難い、かけがいのないものなのだと。
 私は思っています。

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コメント

記事を移して下さって、ありがとうございます。
掲示板で、久しぶりにレスをしたかったんですが、
長くなりそうで、ちょっと躊躇してました(苦笑)。


私は、なぜか子どもの頃から戦争に関する番組をよく見ていました。
戦争に関する本やマンガも、そこそこ読んでいます。

一方で、私は、広島にも、長崎にも、沖縄にも、行ったことがありません。

でも、第二次世界大戦は、私とつながっている、という気がしています。

祖父が、この戦争で、大陸で戦死をしたこと。
両親が、小さい頃とはいえ、それぞれ戦争体験をしているということ。
母の名前が、戦死した母の叔父の名前から一文字もらっていること。
母の実家には、防空壕が残っていること。

エピソードとしては、大きいわけではありません。
でも、私が今生きている、その前に、確かに戦争があって、
私につながる人たちが、戦争を体験していた、という事実を、
折に触れて、少しずつ聞いて来ました。

大きな戦争の爪あとを体験すると同時に、
自分の身近な人と戦争とのつながりを聞くこと。

この2つこそが、自分のこととして考えるために、必要だなあと、
しみじみ思います。

私の場合、
阪神大震災や、中越地震は、
友人知人が経験したので、自分のこととして考えられたけれど、
東南アジアの大地震や、いろいろな国への空爆や、911は、
身近な人で体験した話しがなかったので、
やっぱり、ちょっと距離感があります。

今のこどもたちが、戦争や災害を、自分のこととして感じられないのは、
ある意味当たり前だよなあ~という気もします。

だって、身近な大人たちが、それを感じられていないわけですし。
自分のこととして感じられるような、<ちょっとした努力>もしていないわけですし。
それを子どもたちに伝えること、共有できるような働きかけを、していないわけですし。

インパクトのある体験と、身近な戦争につながる話。

どちらが先でも後でもいいけれど、
両方が、その子その子が受け取りやすいような形で、届けられますように。

投稿: 水兎 | 2006年8月10日 (木) 16:55

水兎さん、コメントありがとうございます。

>大きな戦争の爪あとを体験すると同時に、
>自分の身近な人と戦争とのつながりを聞くこと。

>この2つこそが、自分のこととして考えるために、必要だなあと、
>しみじみ思います。

まったくその通りですね……。
自分自身のことのように想像できることが必要なんだろうなぁ。
そのための工夫が。

炎上するビルの映像に「すげ~!」と歓声を上げた息子に
「でも、あの中には逃げ遅れた人がまだいるかもしれないんだよ。
その人たちは逃げるのに必死だよね」
と言ってあげたり、

爆撃のために撃ち出されていくミサイルの映像を見ながら
「あれが飛んでいく先には町があって、人が住んでいるんだよね?」
と、ふとつぶやいた子どもに同意してあげたり。

ひとつひとつの関わりは些細だけれど、
そういうことも大事なんじゃないかな、と考えています。

投稿: 朝倉玲 | 2006年8月11日 (金) 05:33

星空掲示板に書いた最初の記事のほうも
ここに収録しておくことにします。


「Re:8月6日、 8月9日 原爆の日」

私はそれこそ戦後の生まれだし、東北に生まれ育っているから、
「原爆」というものに直接触れる機会はなかったのだけれど、
私が小さかった時分には、まだまだ日本のあちこちから、
戦争の爪痕が生々しく「掘り出されて」いたんですね。
土中から遺骨や遺品が出てきたり、
近所に防空壕が残っていたり。(鉄条網がされていて、立ち入り禁止になっていたけれど)
そんなものを見聞きするたびに、
「母が」が自分の戦争体験談を聞かせてくれたんです。
直接空爆されるようなことはなかったけれど、
空襲警報のたびに防空壕に逃げた話、
戦争中にものが全くなくなっていった話、
終戦直前から戦後にかけて、本当に食べるものがなくなって
ものすごくひもじい思いをしたこと・・・。
母が戦争経験者としての「語り部」をしてくれていたんですね。

そんな中で、ニュースや学校の授業で「原爆」を知るようになって
「戦争=原爆」という、非常に強いイメージの結びつきができてしまったのだと思います。
小学校中学年くらいまでは、本当に怖かったです。
以前にもここで書いたことがあったような気がするけれど、
「原爆」という文字を見ることさえ怖かった。
日本で唯一戦場になった沖縄や
原爆が落とされた長崎も、地図帳で見ることができなかったし。
地理音痴だったので、広島がどこにあるのか当時は知らなくて、
そこは平気で見てましたけど。(^_^;
原爆過敏症とでも言うんでしょうかね。
その年代の子どもにしては、そうとう強い恐怖心を抱いていたと思うし、
親や先生も、そんな私にあきれるというか、心配をしていたようだったけれど。

大人になって行くに従って、そういう想いや経験が私の中で整理されていって、
「戦争は絶対に起こしてはならないもの」
という強固な信念につながっていったのだと思います。
いつだって、平和を願うときの脳裏に浮かぶのは、
全身が焼けただれ、水を求めながら死んでいった被爆者の姿です。
そんな地獄絵が再びこの世界で起こらないように、
私自身や私が愛する人たちが、そんなものを絶対に経験することがないように。
それが私の平和への願いの原点だし、
世界中の人が同じように、自分と周りの人たちの平和を願えば、
少なくとも、世界規模の戦争は起こさずにすむようになる
と私は思っているのですね・・・。

>この日を毎年、掲示板に取り上げてもらってありがたいと思っています。

私にできることといったら、そのことくらいですから。
「またか」と思われるかもしれないけれど、
それでも、目にした人が、ほんの一瞬だけでも
戦争について考えたり、平和を願ったりしてくれたら
それで本望かな、と思います。

平和で平凡に見える日々。
でも、それこそが、何ものにも代え難い、かけがいのないものなのだと
61年前のあの日は、私たちに告げているんだと思います・・・。

投稿: 朝倉玲 | 2006年8月11日 (金) 07:24

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