「デスノート」・4
昨夜、詐欺の現場を取材したテレビ番組を観ていた兄ちゃんが、突然腹立たしそうに言い出した。
「まったく、こういう犯人のヤツらこそ、デスノートに名前を書いて全員殺してやりたくなるよな! ぜぇってえ、殺してやりてえ!」
兄ちゃんは漫画「デスノート」が大好き。つい先日、友人たちとその映画も観てきたばかり。だから、なおさらそういう思考になっているらしい。罪もない人たちを精神的に追い詰めて弱い気持ちにさせ、大金を巻き上げていく詐欺グループの手口に、本気で腹をたてている。その姿を、いかにも高校生らしいまっすぐさだなー、と思いつつ。
「う~ん、でもねぇ……殺しゃいいってものでもないと思うよ」
と母である私。
「どうして!? 悪いことをしたヤツは報いを受けるべきだと、俺は思うよ! 殺人を犯したヤツは絶対死刑! 『デスノート』反対派のヤツらもいるし、死刑廃止論をいうヤツらも大勢いるけど、俺はそいつらに言いたいね。身内を殺されてみろって! その時にも、死刑はいけないことだとか言えるか? ぜってぇに、ぜえってぇに、そいつも犯人を『殺してやりたい』って憎むはずだぞ!」
高校生になってから、兄ちゃんは「絶対」ということばに「ぜってぇ」という言い方をする。
まっすぐだねぇ、兄ちゃん。本当にまっすぐだ。もちろん、兄ちゃんが言う殺人犯の中に、過失で相手を殺してしまったり、自分を守るために相手を殺したりしたケースは含まれていない。純粋に、悪意を持って相手を殺した犯人のことを指している。
でもね……本当の世の中ってのは、そんなに単純なものでもないんだよ。お母さんは「デスノート」の漫画を読み続けることができなかった。だって、どんなに凶悪犯だったとしても、「だから、殺されて当然」とは、なかなか言い切れないのが現実だと、わかってしまっているから。漫画に描かれているように、犯罪者だから、受刑者だから、悪徳政治家だから、「殺されてかまわない」とは、とても言い切れないのが現実だから。
言葉を濁す母に、兄ちゃんはじれったくなったらしい。どうしてそんなことを言うんだ、と言うように、母にかみついてくる。
「悪いヤツは悪いんだ! 人を殺したヤツは殺されて当然! 最近、悪いヤツらがますます増えてるじゃないか! 小学生を平気で殺したり。そういうヤツこそ、死刑になるべきだと思うぞ! 誰が許したって、身内を殺された家族が絶対に許さないじゃないか! どうして、そうヤツを殺したいと思っちゃいけないんだ!? 俺はデスノートが現実にあったらいいと、本当に思うぞ!」
私は思わず溜息をついてしまう。その意見は正しいよね。ある意味、本当に正論だよね。目には目を、歯には歯を。世界の正義の根源をなす思想だけれど。だけど……
「今は、わからなくてもいいよ。ただことばでだけ聞いておきなさい。世の中って言うのは、それほど単純なものじゃないんだよ。悪いやつを殺すことが一番正しい、ってことじゃないんだ。殺すことが解決にならないことも、たくさんあるんだよ。……今はわからなくてもいいから、そういう考え方もあるんだ、ってことだけは、覚えておきなさい」
すると、兄ちゃんが憮然とした顔になって聞き返してきた。
「たとえば、それってどういうことさ?」
時計はもう夜の十時半を過ぎている。昇平を寝かしつけなくちゃいけない時間なのだけれど、なんとなく、兄ちゃんとのやりとりをこのまま切り上げてしまいたくはなかった。
「……お母さんが考えていることを、本当に聞いてみたいと思う?」
「思う」
兄ちゃんがそういったので、それまで向かっていたパソコンから離れて、兄ちゃんに向き直った。
「たとえばね、最近、兄ちゃんくらいの年の子が、もっと小さい子や他の人を殺したりする事件を時々起こすでしょう?」
「ああ。そいつらこそ殺されるべきだと思うぞ!」
と兄ちゃん。口調は激しい。同年代の子の事件だからこそ、それはいけないことだ、間違っている、という想いが強いんだろう。
「そういうことをする子たちってね、自分自身が、家族の中で大切にされてきていないことが多いんだよ……。一見ごく普通の家庭に育っていることもあるんだけど、よくよく調べてみると、家庭の中でその子は全然大切にされてきていないんだよ。ほったらかしにされているのね。人間として大切にされてきてない、っていうのかな……。自分を大切にされてきていない子は、他の人間を大切にしようなんて考えないんだよ。相手が自分と同じように考えたり痛がったりする人間だとは思えないの。相手を大切にすることができないんだ……だって、自分自身が、生まれてからずっと、誰かから大切にされてきた経験がないからね」
「……それは、その親が悪いじゃないか!」
「それでも、その子のしたことは、やっぱり罪なんだよね。人を殺すのは、悪いことだもの。ただ、その子は、そういうことをするのが『悪いことだ』とはわからなかったんだ」
「どうしてわかんねえんだよ! 普通わかるじゃないか、それくらい!」
「それを教えるのは誰?」
「そりゃ、親だろう」
「だから、その子は親たちから教えられてこなかったんだってば。自分のしたことが悪いことだと、誰からも教えられてこなかったんだ。そうだとしたら、本当に悪いのは、誰になると思う?」
「……そいつの親」
ね。これはたとえば一つの例に過ぎないけれど、殺人一つを見たって、その背景を考えると、単純にその犯人を殺せばそれですむ、という問題じゃないことはあるんだよ。
その子は人の命を大切にすることを教えられてこなかった。それというのも、自分自身を大切にされてきた経験がなかったから。それをね、一から教えなおそうとしている少年院がね、実際に日本にはあるんだよ。人の命の大切さ、相手を大事にすることの大切さを教えて、そして、自分がしたことの罪の大きさに気づかせようとする、そういう取り組みをしているところが、本当にあるんだ。
もちろん、犯人の全員が全員、それに気がつくというわけじゃないよ。中にはいくら教えても最後まで気がつけない人もいる。そういう犯人は、やっぱり極刑にされるしか道はないのかもしれないね。人によっては、すぐに死刑で殺してしまうのは間違っている、一生外の世界にでられない刑務所に置いて、そこで人生を過ごさせることこそがなによりつらいことになるはずだから、死刑より終身刑のほうがいい、と主張する人もいるよ。その犯人にとって、どうすることが最も適切な「刑」になるのかは、その人によって違うのかもしれないね……。
兄ちゃんから最初の頃のような激しい憤りは感じられなくなってきた。けれども、やっぱり怒ったような目をしながら、こう言う。
「犯人は自分の罪を悔い改めて、自殺するべきだと思うぞ。俺だったら――もしか、俺が本当に悪いヤツになって殺人を犯して刑務所に入れられたとしたら――刑務所の中で一瞬正気に返って、自分で自殺すると思うぞ」
きっぱりした口調。
思わず絶句した母に、兄ちゃんがちらりと目を向ける。
「俺がこういうこと考える人間だってこと、お母さんは知らなかった?」
ホントにもう……君と来たら! 思わずほほえんでしまった。
「意外だったんじゃないよ。やっぱり、お父さんとお母さんの子どもだったんだなぁ、って思っただけなんだよ」
「……お母さんも、そんなふうに思ってるわけ?」
今度は兄ちゃんが意外そうな声。
笑ってしまう。笑顔を返すしかない。
「思ってるよ。たとえ間違いでも人を殺してしまったら、誰が許してくれても、お母さんは自分で自分を絶対に許さないから。だからね、もしも、本当にそういうことが起こってしまったら、お母さんのことを気をつけてちょうだいね。もしもお母さんが自殺しそうになったら――止めてね」
今度は兄ちゃんが絶句した。
時計の針は11時に近づいている。もう、昇平を寝かしつけなければ。昇平は、隣の部屋の布団に転がって、いつまでも携帯ゲームを続けている。もう行かなくちゃ。
考え込んでるような兄ちゃんを残して、私は部屋を出た。
朝になってから、旦那にその話をした。旦那は仕事が忙しくて、その時間にもまだ帰宅していなかったから。
「難しい問題だな。答えはなかなか出ないな」
と旦那も考え込むように言った。それはそうだ。旦那自身にだって、まだ答えが見つかっていない問題だもの。
「うん。考えていけばいいと思うんだ。何年も何十年も考えて、そうして答えを見つけていく問題だと思うんだよ」
殺したい相手の名前を記せば、一定時間後にその相手を自然死させることができるというデスノート。手を血に染めることなく、悪い人間を世の中から抹殺していくことができる。それは「絶対の正義」の姿なのかもしれない。
だけど――人間に、デスノートは本当に必要なのかな。
その答えは、君自身がこれから時間をかけて見つけていくものだね。兄ちゃん……。
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