大人に向かう道
昨日の夜のこと。
夕食を食べ終わったテーブルに、旦那と私とお兄ちゃんだけが残っていた。
最近のお兄ちゃんは、ニュースになるような社会問題にも興味が出てきている。ライブドアの株価の話から、「株式とはいったい何なのか?」という話になっていった。
旦那は経済学部出身。会社の仕組みはこうなっていて、これこれこういう理由から株式が発行されて・・・と説明をしていく。
お兄ちゃんの質問はさらに続く。「上場企業って?」「株取引って?」「証券会社ってのは、そもそも何をしているところなの?」
旦那の説明が難しくなって、お兄ちゃんがわかりにくくなってきたような時には、私もわきから口出しして補足していた。お兄ちゃんは昇平と同様、視覚的に物事を考える方が得意な子だから、こんな言い方の方がわかったりする。「Aさんという人が会社を始めたいと思いました。でも、資金が足りません。そこで、1枚100円の株式を1万枚作って発行することにしました・・・」
質問はますます細かく深くなっていく。「証券市場ってなに?」「株価は毎日変わっているけど、あれはどうやって決まるものなの?」
とうとう旦那が言った。「知りたいと思うなら、自分で調べてみろよ」
今は、漫画で株や経済の仕組みをわかりやすく教えている本もあるんだし・・・と旦那が続ける。そういう本などを自分で探して、調べてみようとしろ、と言うのだ。
お兄ちゃん、どこか憮然とした様子になって、自分の部屋に引っ込んでしまった。
「あいつはあんまり探求心がないなぁ。疑問に思ったことを調べようとするところから始まるものなんだが」
と旦那がぼやいた。
それは確かに言えるかもしれない。お兄ちゃんは、自分から調べたり、自分から求めたり、ということを積極的にするタイプではない。与えられたこと、決められたことには割と真面目に取り組むけれど、どちらかというと、マニュアルがあって、あらかじめやることがわかっているほうが安心するタイプ。自分から冒険して、何か新しいことにチャレンジしたり、人と違ったことに取り組んだりする人種ではないように見える。まあ、この先、成長する中で、これは変わってくるのかもしれないけれど。
私はふと、昔読んだとある科学者のエッセィを思い出していた。誰が書いたものだったか、すでに記憶にはないけれど、多分、ノーベル賞か何かを受賞した人の文章だったように思う。自分が科学の道に進み出したばかりの、学生時代の思い出がつづられていた。
大学の先輩をつかまえて、この実験でこうしたらどうなりますか? こんなふうにしたら、どうなりますか? と質問攻めにしていたら、最初は丁寧に答えてくれていた先輩が、やがて黙り込み、最後に一言、こう言ったのだという。
「君、自分でやってみたまえ」
それで、その科学者は、自分で実験してみること、自分でやってみることの重要性に気づいた、とエッセィには書かれていた。
その人の性格にもよるけれど、マニュアルがあって、やり方があらかじめわかっている方が安心できる人は、世の中に大勢いる。わからないことがあれば、わかる人に聞いてみるのが、大人の世界でもまずは基本だ。
でも、それでもわからないこと、もっと知りたいことが出てきたなら、やっぱり、「自分から」調べようとしなければ、その先のものは手に入らないんだろうな、と思う。
与えられるのを待つのではなく、与えられたものだけで満足するのではなく。
高校生のお兄ちゃんは、今、大人の入り口に立って、目には見えない「社会」というものを眺め回しているんだろうと思う。道しるべがどこにあるのか、どこへどう進めばいいのかわからない、未知の世界。だからこそ、不安になるし、だからこそいらだつことも多い。私も覚えている。確かに高校時代はそういう時間だったから。
マニュアルがあればどんなに楽だろう、と思うのも無理はないよね。だれか、社会の先輩を見つけて、その言うとおりに進んで行ければ、とても安心だ。その先輩を、親の背中に求めているのかもしれないね。
だけど・・・。
親が道を作って上げられるのはここまで。ここから先は、君自身が作っていかなくちゃならない。
とまどっても、迷い悩んでも、それでも、自分で進んでいくしかない道だから。
突き放されたように感じても、めげずに進むしかない。たとえその場でジタバタしているように感じても、あがいた分だけ、ほんの少しは、きっと前に進んでいるはずだから。
大人に向かう君の道。
君はやがて、どんな場所に立っているんだろう。
それは、父や母がいるのとは、また違った場所で、きっと我々とはまったく別のものを見つめているんだろう。
親はやがて、子どもの背中を見守るようになるんだね。
君を見ながら、そんなことをしみじみと考えている。
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