私が向かっている机の上には、古いカレンダーの額が飾ってあります。1997年。もう8年以上も昔のものです。
カレンダーとしては役に立たないのに大事にしているのは、そこに一緒に印刷されているのが、当時2才だった昇平と小学2年生だったお兄ちゃんの写真だから。近所の写真屋さんで昇平の七五三の記念撮影をした時、サービスで作ってもらったカレンダーなのです。
昇平は当時数え年で3才、実質は2才3か月でした。すでに多動はバリバリで、記念撮影をするのにも、写真屋さんが大汗をかいて苦労して、2時間以上も粘って、ようやくベストショットをカメラに収めることができました。
昇平の小さい頃の写真は数少ないです。それも、まともに写っているものとなると、なおさら少ない。カレンダーの写真は、その中の貴重な一枚でした。
カレンダーの中の昇平は、ぷくぷくとおまんじゅうのようなほっぺたをしています。すでに着崩れした晴れ着を着て、両手に持ったボールを差し出しています。これは、写真屋さんが昇平に転がしてくれたボールを、拾って「はい」と差し出しているところ。写真屋さんとしては、そのボールで遊んでいるところを写真に撮りたかったわけなのですが、昇平は拾うやいなや、すぐにそれを写真屋さんのところへ持っていく。カメラの照準が合わなくなって、写真屋さんは苦笑い。何度やっても同じこと。
でも、その中でも奇跡的に、ちゃんと合ったものがあって、笑顔でボールを差し出す昇平と、その後ろで弟を笑顔で見守っているお兄ちゃんが写りました。二人とも、とってもいい笑顔です。
あの頃は、昇平の障害なんて、まだ全然わかっていませんでした。何か普通の子とは違う、と気がついてはいましたが、私はADHDの「A」の字さえ聞いたことがありませんでした。ちょっと(いや、かなり)手のかかる子どものいる、ごく当たり前の家族として、暮らしていた頃の写真です。
だけど、その写真に今の子どもたちの顔を重ねてみると、確実に大人にはなったけれど、笑顔そのものは全然変わっていません。二人とも、あの頃と同じように屈託なく、ごく当たり前の、子どもらしい笑顔を見せています。
さすがに、お兄ちゃんは高校生なので、そうそう笑うこともなくなってしまったけれど、機嫌のいい時や弟が面白いことをした時には、やっぱり写真の面影そっくりの笑顔を見せます。昇平にいたっては、基本は2才の頃とまったく同じ。ただ、最近は「俺だってやる時にはやるぞ」みたいな、大人ぶった笑顔も見せるようになって、おぉ、大人になってきたなぁ、と思わされますが。
ここに来るまでの間には、本当にいろいろなことがありました。その間、昇平のために、お兄ちゃんのために、いろいろなことをしてきたわけですが、それってなんだったのだろう、と考えると、ただひたすら、この子たちのこの笑顔を大事にしたかったからなんだな、と思ったりします。
明日笑顔になるためじゃなく、まして5年後、10年後に笑うためじゃなく、今この瞬間に幸せを感じていてほしかったから、親もがんばってきました。でも、それも肩に力を入れた「がんばる」じゃなくて、「こちらも一緒に楽しんじゃおう」という、お気楽ムードながんばりだったんですけどね。
あれこれいろいろ考える割には、実際の私の行動は、かなり直感的です。野生の勘とでも言うんでしょうか。理論は後からついてくる。後から本を読んで、自分がやってきたことと同じ考え方の療育方法が出てきたりして、「へーっ、これだったのかー」なんて自分で感心するのもしょっちゅうです。
ま、母親なんてのは、えてしてそんなものですよね。ものすごく本能的な生き物だから。(笑) で、案外、その母親の直感は、かなりいい線をいっていることが多いんじゃないかな、なんても思います。
カレンダーの写真は、8年の間にすっかり色あせました。
昇平も、写真に写ったお兄ちゃんより、ずっと年上になってしまいました。
でも、遠いあの日も、今のこの日も、私たちは変わることなく、やっぱり家族で居続けています。
特別なことはなんにもない。昇平に診断がついても、特殊学級に行っていても、そんなことは全然関係ない。
私たちはごく当たり前の、普通の家族で、他の家族が暮らしているように、みんなで一緒に暮らしている。
子どもたちが巣立つその日まで、私たちは家庭を守り続けるだろうし、巣立ってからも、時々心休める場でいられるように、やっぱりここに居続けるのでしょう。
私たちはあの日から、ずっと当たり前に生きている。
それが、私たちの基本だったんだなぁ……と、古いカレンダーを見上げながら考えています。
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