京都府宇治市の学習塾で起こった痛ましい事件の報道を読みながら、聞きながら、つくづく考えていることがある。
「子どもは、決してこちらの思い通りになる存在じゃない」
その事実を、彼に教えてくれる人は誰もいなかったんだろうか? と。
最近、日本各地で起きている凶悪な事件の数々。今までの犯罪通念からは、ちょっと想像もつかなかったようなことが頻発している。
金や生活に困って、自分自身の不幸な境遇の意趣返しに、男女の愛憎のもつれから・・・そういう事件ならば、昔から起こっていたし、事件を詳しく眺めていけば、状況も犯人の心理状態も理解できることが多かった。殺人事件だって、犯人の人生を追ってみると、徐々に犯行がエスカレートした結果だったことがわかったりする。(私は推理小説を書いていた時期に、こういう事件記録を読みあさったので。)
だけど、今、日本で騒がれている事件の数々は、これとはパターンが違う。前兆が非常に弱い。何でもない、真面目で普通に見える人たちが、ある日突然、激烈な犯行に及ぶ。本人の中では少しずつフラストレーションと殺意が高まっているのだけれど、それが周囲には見えない。・・・事件を防げない。
けれども、それらの事件を聞いていて、とても強く感じる共通点がある。殺人だったり、誘拐だったり、犯人も大人だったり少年少女だったりするけれど、それらを超えて、はっきり見えるのが、これ。
「他人の気持ちが思いやれない」
もっと極言すれば、
「相手が自分とは違う想いを持つ、別の人格だと言うことを認められていない」
ということ。
人間として、人と人とのつきあいを学んでいく第一歩目のところで、みんなつまづいている。
熱心に指導をする。指導技術の工夫もする。大多数の子どもたちはそれについてくる。でも、10人の子どもの中に1人か2人くらいは、そのやり方では合わない子が出てくるかもしれない。それは当然のこと。だって、人はひとりずつ中身が違っているんだから。どんなに上手な指導でも、誰にでも合う完璧な指導なんてものは存在しない。○○式といわれるような教育システムだって同じ。子どもによって合う合わない、は必ずある。それは、当たり前のことで、その人の指導力を全否定するものではない。
宇治市の事件に関して言うならば、そういうこと。
最近の事件には「オール・オア・ナッシング」の傾向が強すぎる。
殺人という極端な事件に例を取らなくても、これと同じような事は、私たちの周囲で日常的に起こっていると思う。
もしかしたら、これを読んでくれている人が、今朝、まさしく目撃したり、体験したりしたかもしれない。
「私」以外の人物は、たとえそれが子どもであっても、それぞれに違った人格だから、違ったことを感じ、違ったことを考え、違った価値観を持っている。置かれている環境も違ったりする。それなのに、相手も自分と同じように行動し、考えるものだと一方的に決めつけて、「何でこんなこともできないんだ!?」「どうしてこちらの気持ちがわからないの!?」と怒った人はいなかっただろうか?
その時に、怒った人は、相手が「別のことを思っているかも」と考えていただろうか? 「相手にはこれは実行が難しいことなんじゃないだろうか?」と考えてみただろうか?
そういう、ワンクッションになる考えを、「おもいやり」とか言うのだけれど。
私の二男には発達障害がある。認知に偏りがあるために、見ただけ、聞いただけではなかなか理解できないことが多くて、特に丁寧に話しかけたり、教え方に工夫をしたりする必要がある。それでも、なかなか社会性は発達しなくて、小学4年生の現在、ようやく1年生レベル程度の友だち関係は作れるようになってきたかな・・・? という段階。
相手の気持ちや立場がまだまだ「思いやれて」いないのは、見ていてはっきりわかるから、そのたびに繰り返し教え続ける。
「今、○○くんはどういう気持ちだったと思う?」
「△△ちゃんは、こうしたいと思っていたからこんなことをしたんだよ。君はどうしたら良かったのかな?」
標準年齢よりは遅れているけれど、それでも彼は、相手が自分と違う人間だと言うことを学び、その違う相手と、どうやったら一緒に気持ちよく過ごせるかを、毎日学んでいる。
私は発達障害の親の会にも入っているけれど、そこに集まる親たちも、同じように我が子にいろいろなことを教えている。我が子に困難があるとわかっているからこそ、熱心に教え続ける。子どもは何度もつまづくし、親も何度もどん底まで落ち込むけれど、それでも、みんなあきらめないで我が子と向き合おうとし続ける。
そんな親たちの姿を見ていると、私は時々、無性に不思議な思いにかられる。
「この人たちの子どもこそが健やかに育っていくだろう、という予感がするのは、何故だろう?」
と。
様々な場面で見たり聞いたりする、他の子どもたち。「健常児」と呼ばれる、障害を持たない子どもたちが、大切な何かを教えられないままに、ほったらかしにされているのを感じるのだ。
モノも知識も十分に与えられているかもしれない。だけど、人間が人間として生きるために一番必要な「社会性」を、子どもたちはちゃんと育ててもらっているだろうか?
それは、人と会った時に挨拶をするとか、感謝の気持ちをお礼のことばで伝える、というスキルだけのことではない。
そもそもの根元になる、「相手は自分とは違った存在である」ということを納得し、「でも、その違った相手と気持ちよく一緒に過ごしていきたいから、どうしたらいいか?」ということを、試行錯誤しながら、体で身につけていくこと。
理屈じゃなく。
そういうものを育む場が、今の日本には、あまりにも少なくなっている。
原因は? 核家族化、少子化、コミューン(地域社会)の崩壊、学術偏重主義の教育、共働き、社会性の発達への理解と対応の立ち後れ、福祉の貧困・・・・・・。
いろいろあるんだろう。本当に、いろいろな原因が。
だけど、そんなものにいちいち怒っていたら、今育っている子どもたちには間に合わない。
そのあたりをなんとかしたいと思って改善に取り組むのも良いけれど、それよりもなによりも、今日から、子どもたちと向き合ってほしいと思う。今、自分の目の前にいる、このひとりの子どものために。
まずは、子どもの話をきちんと聞いてほしい。
子どもたちの想いを、大人の一方的な決めつけをしないで、ありのままに聞いてあげてほしい。
そのうえで、大人は子どもを「自分とは別個の人格として」尊重しながら、真っ正面から答えてあげてほしい。
それは子どもの要求を100%そのまま聞いてあげる、ということではない。できることもできないこともあるし、やっていいことも悪いこともある。それら1つ1つに対して、大人も「一つの人格として」答えていってあげてほしいのだ。
子どもは大人との関わりから、社会性の第一歩目を始める。いきなり子ども同士の関係には行けない。まず子どもと大人の関係で社会性の基礎を作ってから、徐々に子ども同士の関わりに移っていく。そして、それが大人になってから、社会の中で生きていくための基礎になる。
「自分」を大切にしてもらった経験がない子どもは、「相手」を大切にできる子どもや大人には育たない。
今、日本各地で起こっている数々の事件は、大人たちが子どもたちから「逃げ回ってきた」つけが回ってきたんだ、と私には思えてならない。
この類の事件は、これからますます増えてくるような予感がする。殺人、育児放棄、虐待、ストーキング、誘拐、異常愛好・・・。
今、ここで立ち止まらなかったら、この国はとんでもないことになる。そんな危機感を感じてならない。
そんな大きな怖いうねりから、自分や子どもたちを守るためにも、「まずは子どもの話に耳を傾けること」。子どもが身近にいない人なら、大人だっていい。相手の話を聞いて、その想いに耳を傾けてみてほしい。
人と人との関わりというのは、それが一番の基礎であり、それが一番大切なことなんだと思うから。
もう、こんな不幸な事件が二度と起こってこないように。
祈りを込めて。
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